今回は、何度かこのOur Worldシリーズで紹介したJ. A. ホブソンの論文をお送りします。この論文は大恐慌の後、1933年に『エコノミカ』という雑誌に掲載されたものですが、国内総生産の6割を占める個人消費の低迷に悩む現在の日本の状況にも当てはまるものです。私は以下のホブソンの論文は、日本が現在の景気低迷から抜け出し、国民の幸福を満たせるように経済を立て直す方向性を示してくれていると思います。
日本や欧米では、現在、情報技術産業が非常に盛んですが、情報技術がこれまでの技術革新と特別異なるわけではありません。情報技術も、産業革命以降200年間にわたる、製造や流通の生産性向上のための技術革新の1つに過ぎないのです。我々人間は、手作業で行っていた製造および流通過程を機械化し、次に蒸気や石炭、石油によりその機械の生産性を押し上げました。さらにロボットや工作機械により機械で機械を製造するようになり、そして今度は、コンピュータや通信ネットワークが、人間の知的作業の生産性も向上させ、人間に代わってそれを行うことまで可能になったのです。こうした技術発展の歴史により、日本の生産性は飛躍的に向上し、1990年代の生産性(国民1人当たりの国民総生産)は、1980年代の2倍、1970年代の4倍、1960年代の16倍に増えています。
しかし、これまでの技術革新同様、情報技術は、商品提供能力を大幅に押し上げたものの、人間の需要を増加させることはありませんでした。1990年代の日本の需要は、生産性と同じ速度で増加してはいないのです。つまり、現在の所得分配方法および個人消費の配分に基づく消費需要では、機械化および自由化によって押し上げられた生産・流通能力に追いつかないのです。そして供給が需要を大幅に超過し、製品やサービスを作り過ぎているからこそ、業者間の競争や値引き競争が熾烈化し、その結果、戦後最悪の失業や倒産、自殺、経済的、社会的な弊害につながっているのです。
60年前にホブソンが著した「過少消費」に関する分析およびその処方箋は、現在の日本の状況にも当てはまるものです。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
過少消費
J.A. ホブソン
『エコノミカ』誌 1933年11月
現代の経済制度では、資本と労働の生産力は、(1)消費財、(2)取替品、(3)新しい資本財、の3つに適切な割合で配分される。割合は消費者の好みや需要、技術革新に応じて常に変化するが、これら3つに生産的エネルギーが適切に配分された時、真に均衡がとれる。またその割合は、賃金、利子、利益、賃貸料、給与といった形で生産要素(土地、労働、資本)の所有者に継続的に分配される貨幣所得が、どう使われるかを予測することによって決定される。これらの購入に対する「支払い金額」が社会の総所得に相当する。取替品(通常は予備品で賄われる)への支出を除いた純所得は、消費財の購入か、あるいは貯蓄されて資本財購入のために投資に回される。すなわち、純所得は新しい消費財および資本財向けに使われ、これらを作る費用となる。消費財は、市場に提供されてからなるべく早く購入されるように種類や量を考えて生産される。同様に新しい資本財も、投資家の貯蓄ですぐ購入されることを見込んだ量および種類が生産される。多くの場合は、こうした製品に対する注文に応じて需要予測が立てられ、生産が決定される。消費財および資本財に対する購買力は、現在の所得、つまり、生産要素の利用に対する支払で分配された費用で決まる。適切な均衡のとれた経済制度では、どの分野の生産にも有効需要が存在し、生産物の適用にも大きな遅れは生じないはずである。1年以内という短期間に行われたすべての生産的な作業が分配された所得で購入されるのであれば、この過程は単純であり、貨幣所得はその通りの実質所得、つまり購買力ということになる。
しかし、消費財でも資本財でも、製品の多くは生産にかなり長い時間を要するため、直近の1年以内または短期間に費用として支払われた所得がすぐに使われたとしても、その大部分はそれ以前の費用で作られた製品を購入していることになる。
これは我々にどのような影響をもたらすことになるのか。支出と貯蓄(消費財と資本財の生産のための貯蓄)の間に正しい割合が保たれていれば、まったく影響はない。生産が増加し、それに伴い貨幣所得が増加しても、支出と貯蓄の割合が変わらなければ、不均衡は生じない。生産の増加が、単位当たりの生産費用の削減につながる技術革新によるものであれば、以前と同じ貨幣所得でより多くの消費財および資本財を低価格で購入できるので、問題は生じない。コスト削減により価格が緩やかに低下しても、純所得が以前と同様の割合で消費財および資本財に投じられていれば、混乱の原因とはならない。
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有効需要の不足という意味での過少消費による生産の低迷が今日広く認められているが、そう考える人の多くは、その状況こそが、所得分配の不均衡による支出と貯蓄の不均衡をもたらしているということを認めたがらない。彼らにとってそうした不均衡は起こり得ないのである。なぜならば、ここで仮定しているような、支出と貯蓄の適切な割合などあり得ないと彼らは考えている。また、過剰あるいは過少な貯蓄傾向は、経済法則(人間の意思とは別個の、生産や分配に作用する法則)の適用により抑制され、是正されると考えているからである。
支出と貯蓄の間に大きな不均衡の可能性があることを認めたがらないのはなぜだろうか。これには、明らかに理由がある。倹約を本能的な経済の美徳(資本主義の初期段階で、すべての貯蓄が明らかに有効に利用された時には極めて知的な見方であった)と結び付ける感情的な価値観とは切り離したとしても、過剰貯蓄の可能性は最近の問題であることは事実である。19世紀の大半は、個人だけではなく国家も、自分の好きなだけ所得を貯蓄および効果的な投資へと振り向けることができた。イギリスは1870年代、さらにはそれ以降も、国内で使いきれない貯蓄を輸出したり、海外へ投資したりして利益を出すことができた。イギリスに加え、ドイツ、米国やその他の諸国でも、後進国の開発に過剰な資本を使い始めた時でさえ、すべての諸国に十分な適用分野が存在した。しかし、この初期の開発段階がほとんど終わり、ヨーロッパやアジアの他の諸国が生産性増加の新しい手法を使って近代的な機械生産を開始した今となっては、効果的な貯蓄には限界があることは明白である。
貯蓄は、将来に生産や消費を増やすための物質的手段を用意するために、現在の消費を犠牲にすることを意味する。個人が若い時期に老後のために倹約しようとするのと同じように、社会全体が子孫のことを心配し、後世の人々が豊かな暮らしができるように、自分たちは苦しい生活に耐えようとするとも想像できる。しかし、有益な投資のために一定期間に貯蓄できる所得の割合には限界がある。
その限界を超えて過剰に貯蓄をする傾向があれば、その支出と投資の不均衡関係によって作業中止や失業、無駄がもたらされることになる。
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所得をより平等かつ公平に配分すれば、支出に対する貯蓄の「割合」は少なくなっても、貯蓄「額」は確実に増やすことになる。これは可能であると同時に、好ましいことである。なぜなら割合としては少ない貯蓄が、完全かつ継続的に利用されることによって、消費財の需要が増えるからである。需要減によって大量の資本財が無駄になるということは起こらない。消費財の需要増とはおもに機械で生産された規格品であり、富裕者の消費に見られるような嗜好や流行に左右されるものではない。所得分配平準化のもう1つの効果は、余暇の需要が増加することである。たとえ不況期下でも、多くの労働者が長期休暇をとれば全労働者の労働時間が短くなる。これは人件費の削減と個人的活動や楽しみの機会増大という2つの効果をもたらす。
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不況期において過少生産や過少消費となるのは、経済制度の運用において、ある種の不合理な要因が存在するためである。その要因とは、賃貸料、過剰利益、偶発的利益などであり、これらは人間のやる気を起こさせたり、維持するのに不必要な、むしろ抑制するものである。もともと不合理な経済勢力や運によってもたらされたこの「労働によらずに得た」利益は、不合理な結果をもたらすのである。不労所得のほとんどは、すでに必需品や快適な生活水準を得るのに十分な所得を得ている富裕者の取り分を増やすだけである。不労利益の増加分は贅沢で無駄な生活に浪費されるのが当然だと思われるが、実際にはその多くは消費に回らない。高い生活水準には飽和点があり、この飽和点を超えた所得は自動的に貯蓄に回る。
つまり、好景気に資本が増加するのは、富裕者が余分な所得の多くを積立てたり、貯蓄するためである。所得分配の不合理な要素が、投資活動にもその不合理性を持ち込んでいる。多数の知られざる出所から生じた貯蓄による投資活動は、消費量に合った将来の生産能力にどれだけの影響をもたらすかという妥当な計算に基づいてはいないのである。資本や労働が生産的な産業に過剰提供され続ける限り、弊害そのものは現われない。製品に対する高い需要を維持する雇用と賃金が十分に提供されているために、生産手段産業(生産財を作る産業)の生産能力の無駄な蓄積が表面化しないからである。
しかし、商人や上流の製造業者からの注文が不足し、販売価格を引き下げざるを得なくなると、資本主義の下部領域に資本が過剰であることが証明され、富裕者から生産的産業への貯蓄の流れが止まる。余剰となった貯蓄には2つの使い道しかない。1つは、富裕者自らが、たいていは腐敗した、投機的な新事業に投資するか、株式で博打を行い、その博打を通じて他者に余剰資金が渡り、そこで浪費されるか貯蓄に回される。もう1つは、慎重すぎて投機活動には手を出せない富裕者が、銀行に貯蓄を残し、好景気をただ待ちわびる場合である。過少投資の期間が始まると、失業が広がり、一般の価格水準が下がり、利益や他の不労所得からの純所得も下がる。不況初期には保たれていた小売販売からの利益も時間とともに落ち込み、景気は、過少貯蓄および取替え品の不足が起こるほどに落ち込む。
工場が老朽化し追加の投資や融資が行われなくとも、低水準の消費を維持しようとする官民の努力は、いずれ価格の刺激に作用するに違いない。これが景気回復の第一歩であり、こうしてもたらされた繁栄が過剰貯蓄を生み出すまでこの好景気は続くであろう。