チャルマーズ・ジョンソンはこのOur Worldシリーズで何度も紹介していますが、今回は彼の新著『アメリカ帝国への報復』(集英社刊)の書評を取り上げます。
今や唯一の超大国となった米国は、民主主義や人権を大義名分にイラクやコソボに介入したり、グローバル化を名目に全世界に米国型の資本主義を押し付けています。ジョンソンは、米国がこうした帝国主義政策に対する報復を受けることになるだろうと警告しています。
本書には、沖縄問題他、日本に対する帝国主義政策の例も多数記されています。以下の『ネイション』誌の書評と合わせて、本書もご一読されることをお勧めします。
『アメリカ帝国への報復』
(チャルマーズ・ジョンソン著)
に対する書評
『ネイション』誌 2000年8月7日・14日
パトリック・スミス
4月9日の『ニューヨーク・タイムズ』紙(日曜版)は、パリ支局員スザンヌ・デーリーの記事を一面に掲載した。それは最近ヨーロッパ人の中に、米国人に対する脅威と嫌悪が見られるという記事であった。米国は懸念すべき社会であり、脅威であるとともに、世界を自国のイメージに塗り替えようとする危険な勢力だとヨーロッパ人は見ている。米国に対する批判としてあがったもの(銃、死刑、グローバリゼーションに対する病的な固執等々)の中でも突出していたのは、米国が過去との関係を断ち切っていることについてであり、また他者が米国を見るように自分たちを見られないことについてであった。デーリーが引用したフランス議会議員ノエル・マメールの言葉を借りれば、それは「全能と無知」であり、「いかがわしいカクテルのせいだ」という。
翌週、日曜版の同じ場所にまた奇妙な記事が載った。1953年、イランで起こったクーデターによりモサデク政権が転覆し、前イラン国王が不動の君主に就いたことに関するものであった。すでに歴史に埋もれてしまったこのクーデターについて、CIAが外国政府の転覆に成功した最初の例だと『ニューヨーク・タイムズ』紙は記した。そしてイラン人が当然のことと考えている1953年のクーデターと、イスラム教指導者であるホメイニが政権に就いた26年後のイラン革命との類似性についても同紙は言及した。
つまり歴史がニュースになったのである。過大評価してもらっては困るが、このこと自体は望みが持てる変化である。1953年のイランのクーデターは冷戦初期の出来事であり、そこからその翌年グアテマラのクーデター、1961年のカストロ政権転覆を狙ったピッグズ湾、1965年のインドネシア、1973年のチリ、そしてインドシナ半島で起きたそれぞれのクーデターや事件へとつながっている。『ニューヨーク・タイムズ』紙のような新聞にイランに関する公開情報が載ること自体、重大な変化である。愛国心から長年隠されてきたことを知る、あるいは忘れ去られていたことを思い起すよう、今、我々は仕向けられているのだろうか。そう考えるのは立派なことだ。冷戦で傷ついた誰もがそうであるように、すでに関係を断ち切ったと考えていた過去の出来事に対し、米国人は代償を払わされている。人を苦しめた者が被害者になるのはよくあることだ。
問題は米国人が飲む、「アメリカーノ」とでも名付けたいカクテルだ。そのカクテルを毎晩ずっと飲み続けてきた米国人が、正気に戻り現実に対処できる時が来るのかと人は思うだろう。米国のように機能障害を起こしている民主主義では、権力を行使する上で、また「米国は他者との関係に基本原則を持たない」という原則を維持するためには、国民の無知(とそれと一対である無関心)が不可欠である。冷戦時代を通してそれは真実であったし、冷戦以降もそうである。ベルリンの壁崩壊後の真の平和の配当は、結局、自己認識という知識である。なぜならば、秘密の番人ならわかるように、「知る」ということは「反抗」につながるからである。すなわち、ニュースとしての歴史の見解に、秘密工作の歴史の見解、すなわち歴史を記憶している者としていない者とを隔てる一種の武器に関する見解を加えることができる。
チャルマーズ・ジョンソンの著書15冊のうち、中国と日本に関する長い研究成果の集大成が数冊あり、それが正統派の学説を覆すことになった。最初の著書『中国革命の源流―中国農民の成長と共産主義』(弘文堂新社、1967年)は、革命前の中国共産党が中国で計り知れない人気を博していたという従来の見解とは逆の真実を、極端な反共運動時代末期の米国に認識させることになった。1982年に出版された『通産省と日本の奇跡』(TBSブリタニカ、1982年)は、その後広まった日本異質論の基盤となった。そして、新著も1つの伝説を覆すことになった。ジョンソンは、「この研究によって、自分が長いあいだ無批判に支持してきた帝国について明確に理解することになるとは思ってもいなかった」と記している。
新著『アメリカ帝国への報復』(集英社、2000年)の序文で告白しているように、ジョンソンはその帝国の形を後から意識することになったため、本書を帝国に裏切られた者として忠実にかつ如才なく明確に記している。外国で流したデマの本国への逆流を意味する「ブローバック(報復)」を原題とする本書は、いうなれば米国の新たな「自明の運命説」(今度は北米全土ではなく全世界を支配開発すべき運命を担っているという理論)と呼ぶものに焦点を当てた。これは米国人がこれまで酔いしれてきたカクテル、「アメリカーノ」に関する本だ。また、米国の歴史、言語、アイデンティティに関する本でもある。要するに、ジョンソンは冷戦時およびそれ以降の米国の帝国主義的行動に関する率直な分析と、いずれ米国が支払うことになるその代償について記したのである。
「ブローバック」はCIA用語であり、秘密工作によって予期せぬ結果がもたらされることを意味する。労働者の指導者の暗殺が組合の反抗を招いたり、米国が遠隔地の宮殿を選んで置いた下級の将軍に対しジャングル戦が起こったりすることだ。ジョンソンはこのブローバックという言葉をさまざまな例に当てはめ、その結果、最適な使用例にたどり着いた。彼にとってブローバックは、レーガン大統領による1986年のリビアへの空爆の報復としてのパンナム103便爆破事件、アフガニスタンのヘロイン、国民を大量虐殺したカンボジアの政治家ポルポト、東ティモール問題、米国中西部の斜陽鉄鋼業地帯、日本の自民党など、すべてを網羅し得るものである。これらの事柄はすべてアメリカ帝国の実体である。ジョンソンはその帝国という言葉を注意深く定義して使用している。端的にいって米国は21世紀、このブローバックに常に向き合っていなければならないとジョンソンは主張する。帝国には、国家とは異なる論理があるとするジョンソンは、「米国が今、抱えている問題は、冷戦に伴い米国が秘密裏に、あるいは表立って行った帝国主義的な関与と活動がなければ存在しなかったであろう」と主張する。
ジョンソンは彼の専門分野の中で、こうしたテーマを掘り下げている。中国に2章、韓国に2章、そして日本に1章を割き、また残りのもう1章では、90年代末のアジア危機を、もはや利用価値もなく米国の手に負えなくなった帝国主義的衛星国の解体として分析している。ヨーロッパ、中東、アフリカ、南米については十分に考慮されていない。私は偶然ジョンソンを知っているが、彼は慎重な学者であり自分の知らない領域には踏み込まず、結論以外の議論を読者に提示することもない。それでも、本書は発展的な考え方を示している。本書が出版されたのは、米国内での議論に米国が夢から覚める兆しが見え始めた時であった。この変化が明瞭に表現されており、さらに変化を推し進めるために多くの貢献をするだろう。
ただし、本書にも異論を唱えたい部分はたくさんある。ジョンソンは「ニクソンが中国との国交を開いたことは、東アジアの歴史に対するある程度の理解がようやくワシントンにも浸透し始めたという第一の徴候だった」としている。これは米国政府を買いかぶりすぎているというのが私の意見である。この主張の中にヘンリー・キッシンジャーが含まれることを考えると特にそう思う。その他に、ジョンソンは国際関係論の理論家ロナルド・スティールに同調して、米国は、帝国の属領を搾取する以上に搾取されてきたと主張する。米国の貿易赤字が証明するように、これには一理ある。しかし、複雑な問題の簡略化と同様、あまりにも短絡的である。米国が苦しむ慢性的な貿易赤字は、冷戦の戦士たちが自分達の計画を進めるために意図的に下した判断の結果である。ほんの数年のうちに、米国は、第二次大戦を乗り切らせた高貯蓄・低消費経済から低貯蓄・高消費の国に変わり、自分達が望むヨーロッパとアジアの輸出増を後押しすべく、市場を提供したのである。これが米国の冷戦経済政策のすべてであり、見通しだった。買い物と誠に貪欲な消費が、イデオロギー的に正しい行為になった。それをいまさら、米国が搾取されたとはいえない。それが米国の冷戦時の取引であり、その条件を決めたのは米国だったからだ。
同様に、米国のアジア政策は大幅に見直すべきだというジョンソンの主張に読者は簡単に同意するであろう。しかし、米国の元国連大使カークパトリックのように、アジアの一般に厳格な政権を、「ゆるやかな権威主義国」や「ゆるやかな全体主義国」と称することは、我々を混乱に陥らせる。本書を通してジョンソンは、冷戦時の米ソ両帝国を数多く対比させている。これは正当で有益のようだが、この点もジョンソンが本書でとった戦略の中で問題となる部分の1つである。ジョンソンは両帝国の蓋然的類似性という問題の領域に関しては十分慎重に論理を展開しているものの、読者の中にはこの点で必然的に彼の論理を見失ってしまう人もいるであろう。
しかし、ジョンソンは米国信仰から抜け出す場面で強力な議論を上手に推し進めている。本書はただ単に、一人の優秀な学者が、米国は裸の王様に過ぎないと叫んでいるという類のものではない(確かに米国は裸の王様ではあるが)。より重要なのは、1940年代末以降、新聞や学者たちが米国人への提供を拒んできた事柄をこの本は取り上げていることだ。つまり、我々がどこから来て、どのような人々を作り出したか、またどの方向に導かれているのかを理解するための、枠組みを提供している。冷戦とグローバル化、または帝国的野望と台頭する中国を封じ込めようとする米国の虚しい努力の間に直接的な関連性をジョンソンが見出しているからこそ、この本には説得力があるのである。さらにこれらすべてにおける、ジョンソンの平易な言葉づかいは、文学的にも極めて優れている。現在の米国英語に見られるような、自己満足のために遠回しな言い方を使う婉曲語法を超えている。
本書全体に流れる不気味で恐ろしく暗い運命は最終章で最高潮に達し、ジョンソンはそれを読者に伝えたいと望んでいる。ジョンソンは米国が危機にあると主張し、世界中に自分たちが残してきた「恨みの湖」をずっと泳ぎ続けなければならないだろうという。ジョンソンはテロリズムを「こちらから攻撃できない者が他者の犯した罪に人々の注意を促すために無辜の人々を攻撃すること」と定義し、それが野球と同じくらい米国では日常的なことになり、野球と違ってシーズンオフさえなく頻発するだろうという。国内では、帝国主義的主張が、軍隊にわずかばかりの文民統制を与えることで抑制されてきたものの、国民は気付かぬうちに軍国主義化された意識を持つようになってきた。つまるところ、米国にも限界があるということ、すなわち米国の運命がソビエトとまったく異なるわけではないということを理解できないのは、米国の落ち度だとジョンソンは考える。「驕りこそが、我々の破滅につながると信じている。帝国運営者の古典的な誤りは、支配している領土のどこにも(米国の場合は地球上どこにも)自分たちの存在が重要でない場所はないと信じるようになることだ。遅かれ早かれ、すべての場所に関与するわけにいかないと考えることが心理的に不可能になるが、これがもちろん帝国的な手の広げすぎの定義である」
他の定義もある。その1つは、米国政府が世界の国々との関係を再考する革新的な能力と知的な機敏さに欠けていたために、過去10年間、新しい世界の現実に適応できなかったことに表れている。国防総省がどんなに苦労しても、海外にいくつかある大規模な米軍基地の存在を論理的に正当化することはもはやできない。これもまた、ジョンソンがいう帝国主義的な過剰拡張である。「今日の米国は、冷戦後の世界における新しい役割を絶対に必要としている」とジョンソンはいう。これがこの本で最も重要な一文だと思う。そしてその地理的かつ直接的な表れが韓国である。
38度線に沿った朝鮮半島の緊張関係が半世紀にわたり続いた後の出来事だったから、例えば最近の南北首脳会談のニュースなどで、米国政府は風船を飛ばすぐらいのことはやるのではないかと読者は思ったはずである。しかし、米国政府の反応は冷静なもので、完全な沈黙を守った。米国の指導者や政策立案者は、南北朝鮮の声明からその本音を十分聞き取ったはずである。「これで終わった。米国人がよくいうように、米国はもう過去のものだ。問題は自分たちで解決する」
南北の首脳がピョンヤンで首脳会談を行った2週間後、『ワシントン・タイムズ』紙の新鋭記者のローワン・スカルブルグは、在韓米軍は、3万7,000人の兵士とその家族の存在を喜ばない韓国人の攻撃の犠牲になるかもしれないとソウルから報告した。朝鮮半島に駐屯する米兵は、任地から離れる場合に単独行動を禁じられている。また、もし韓国の友人との間でもめごとが起きたら「民間騒動緊急直通電話」に連絡できるようになっている。それにもかかわらず、国防長官のウィリアム・コーエンは、南北の和解があろうがなかろうが米国は韓国に駐留し続けると言い募る。
そこでこのチャルマーズ・ジョンソンの本が出版されたのである。この本はもっとも純粋な形で米国本国に対しさまざまなことを暴露している。この本が書かれるのが早すぎたということはまったくない。米国は未だ正気に戻っていないといわざるを得ない。健忘症で鏡のない家で暮らしている代償がこれなのだ。これでも「アメリカーノ」のお代わりが欲しいと思うだろうか。