No.423 アメリカ帝国への報復

北朝鮮の国防副委員長が訪米してクリントン大統領と会談し、今度は米国のオルブライト国務長官が訪朝し北朝鮮の金成日総書記と会談するなど、急速に米朝関係が改善し始め、朝鮮半島の情勢変化からアジアでの米軍配備の見直しという可能性も出ています。しかしこれがそのまま軍縮につながらないアメリカの現状で、それが帝国主義政策によるものであり、いずれアメリカ自身がその報復を受ける日がくるだろうというのがOur World No.417でも書評をお送りしたチャルマーズ・ジョンソン著『アメリカ帝国への報復』の主張です。今回は同書から、特に私が同意し、強調したい部分を抜粋してお送りします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

アメリカ帝国への報復

チャルマーズ・ジョンソン著
 

【 日本とアメリカ帝国の経済 (8章) 】

 第二次世界大戦後、アメリカは日本の保護者のように振る舞い、経済上の必要をすべてみたしてやり、日本を資本主義の優等生として育てることに誇りを感じていた。重要な技術をほとんど譲与に近い形で日本に移転し、アメリカ市場を日本製品に開放する一方で日本が自らの市場を保護することは容認した。だが東アジアにおける真に驚くべき展開は、アメリカに保護され依存している国が豊かになり始め、後援者である超大国と競い始めたことだった。

 根本的な問題は、冷戦時代に日本が5兆ドルの経済を達成したことばかりでなく、どうやってそれを成し遂げたかである。日本は、市場経済の代わりに社会主義をとるソ連の理論と、無批判に市場経済を信奉するアメリカの理論との間に、第三の道を見出したのだ。戦後の日本の政策立案者とテクノクラートは、アメリカを真似するのではなく、消費者よりも製造業者の利益に奉仕する資本主義経済を作り上げた。彼らは、セーフティ・ネットのようなものはほとんど提供せず、日本の市民が自衛のために貯蓄せざるをえないようにした。また個人の権利がどうなろうとおかまいなしに、労使協調を奨励した。さらに安価な労働力とか中国のような巨大な市場に近いことなど、もともと与えられていた相対的な利点に頼るのではなく、できるだけ人力を投入することによって維持される産業を作り出した。その目標は日本を富ませることであり、それはかならずしも日本人自身を意味しているわけではなかった。しかし1980年代末の大掛かりな投資ブームの浮かれ騒ぎと、にわか成金が続出した結果たる不動産投機のバブルのあと、経済はぐらつき始めた。1998年にはついに正真正銘の景気後退におちいった。アメリカのイデオローグはこうした成り行きを利用し、例によって例のごとくアメリカの自由市場資本主義こそは世界で唯一の成功に至る道だと説いた。日本はこのたびそう断わりもせずにその分析を自分たちの日本経済批判に取り入れた。

 日本がアメリカの衛星国の役割を演じ続ければアメリカの対日貿易赤字は年を追うごとに上昇し続ける。アメリカの製造業がさらに空洞化し、日本と東南アジアのその子会社では膨大な過剰設備が生まれた。日本からアメリカへの資本移転によって金融業者は膨大な利得を手にしアメリカには繁栄の幻想が生まれた。しかし1997年にそのすべてがばらばらになり始めた。

【 メルトダウン 】

 1997年にタイから始まった世界的な経済危機には、2つの原因があった。第一に東アジアにおけるアメリカの衛星国システムがはらむ矛盾があまりにも大きくなったため、そのシステム自体が不意に分裂し始め、吹っ飛んでばらばらになりかけたこと。第二に、冷戦の間は慎重だったアメリカが、冷戦後世界の残りの地域に自国と同じ資本主義を押し付けるキャンペーンに乗り出したことである。それは「グローバリゼーション」というスローガンのもとで進められた。この2つが世界を席巻したとき、世界中で需要が落ち込み、新たな不況が起こる恐れが出てきた。東アジアの衛星国の国々は主としてアメリカ市場を対象とする「輸出主導型の成長」を目指した。日本がその先頭だとすれば、次が韓国、台湾、香港、シンガポールなどの「新興工業国」、次いでマレーシア、インドネシア、タイ、フィリピンなどの発展の遅れている国々、最後が目下世界で最も急速な経済成長をとげている中国である。日本はこの先頭に立って、あとに続く国々を鼓舞した。ところが時がたつにつれ、こうしたパターンによって東アジアはひどい過剰投資と過剰設備に苦しみ、アメリカは世界最大の貿易赤字をかかえ、環太平洋地域では需要と供給の均衡がとれそうになくなった。そのためにアメリカ帝国はこうした事態によって驚くほど高い代償を払わされることになった。アメリカは仕事を失い、製造業は破綻し、貧困から逃れようとしているマイノリティと女性は希望を失ってしまったのだ。これが帝国のコストを払うために、アメリカの労働者を犠牲にする事実上の産業政策であり、これがもう一つのタイプの報復(ブローバック)なのである。

 経済ジャーナリストのウィリアム・グライダーは、「高賃金の仕事を低賃金の経済圏で行えば、すぐにはっきりとした利益が出る。だが大まかにいえば、それによって高い賃金の消費者と低い賃金の消費者が入れ替わることにもなる。この入れ替えによって、経済システム全体が衰弱してしまうのだ」と述べている。唯一の解決策は、貧しい人々の賃金を引き上げて新しい需要を作り出すことだが、需要を増大させる規制を制定して守らせる権限を持つ政策当局は、そうしたくてもできなかった。「グローバリゼーション」によって、その問題は手の届かないところへいってしまったからだ。

 東アジア諸国のたいていの企業は、表面的には欧米のそれに似ているが、見かけはまったく当てにならない。ごく最近まで日本企業は手の込んだ株の持ち合い取引によって互いに完全に「所有」し合っていた。企業を株主ではなく国の利益に役立たせるためだ。株の売買は資本を増やすための手段ではなかったし、株主は企業経営に伴う危険と利益には興味がなかったのである。これは実際すばらしいシステムだった。イギリスの貧窮者救援機関は、冷戦下の東アジア経済は「歴史上最も多くの人々の貧困をもっとも速やかにやわらげた」と述べている。しかし、東アジア経済の安定は、国家の統制と管理のもとで、閉ざされた財政システムを維持することに依存していた。いったん世界の他の国々に開放されると、発展中の東アジアの財政構造は外国資本と国際投機家の攻撃にひどくもろかったのである。

 東アジアから資金を引き揚げ、その地域を大不況におとしいれたあと国際投資家はロシアに向かった。利率12%のロシア国債を買うことには危険がないと判断した。核兵器を保有する元超大国が債務不履行におちいるのを欧米諸国が放置しておくはずがないと考えたのだ。だが、ロシアの状況は投資家が想像したよりもはるかに悪化しており、1998年8月、ロシアは利息の支払いを停止した。こうした事態に恐れをなした金融資本家は世界中から資金を引き揚げ始めたため、経済が好調だった国々さえも窮地に立たされた。1998年末、クリントン大統領は東アジアとロシアで、国をさらに開放してアメリカ型の自由放任の資本主義に向かうようにと力説した。しかし、苦難を作った原因が解決策になるはずがないことを、人々はすでに理解していたのだ。アメリカが消費の限りをつくし、世界中の過剰な産出に見合うだけの需要を事実上一国で作り出している。「倒れるまで買う」アメリカ人はいつまで倒れずにいられるだろうか? それは誰にもわからない。世紀末の経済危機の発端は、東アジアの衛星国と属国の経済を開放させ、作りかえようとするアメリカの目論見だった。それは表面的には成功したといってもよい。しかし市場開放と規制緩和というレトリックを使ってキャンペーンを推進し、時代遅れの冷戦体制を改革しなかったため、アメリカはその経済的イデオロギーへの信頼を失うとともに、冷戦時代に支持してくれた人々を裏切ってしまった。東アジアの国のおびただしい人々を貧困と恥辱にまみれさせたことは、それだけで十分に反動的である。アメリカを除くあらゆる国にとって、グローバリゼーションとは煎じ詰めれば貧困の拡大ということになるように思われる。「孤独な超大国」の義務が軍事力の手の広げすぎをうながし、グローバリゼーションが過度の経済的拡張につながった。そして両者が報復によって生じる危機の一因となりつつあるのだ。