No.438 IT革命は本物か(3)

前回に引き続き、「IT革命は本物か」と題する小論の第3弾をお送りします。

IT革命は本物か(3)

 

【 経済に対する考え方を変える 】

経済に対する考え方を根本的に変えることなく今後もIT投資を増やしていくことは、日本経済や国民の幸福にとってかえってマイナスになると私は信じている。日本経済が依然として不況から脱することができないのは、大量生産品の過剰供給や、大量生産品のさらなる増加につながる過剰生産能力のためである。経済に対する考え方を変えずにITに投資すれば、過剰供給と過剰生産能力の状況をさらに悪化させるだけで、倒産や失業、それに付随した社会問題の増加は止まらないであろう。

では、日本はどうすればよいのであろうか。私は、日本古来の経済哲学に戻るべきだと考える。日本の経済哲学は、聖徳太子の「十七条憲法」以来、一貫して和を尊ぶことに重点が置かれてきた。すなわち、生産者、商人、銀行家といった一部の人の利益のためでなく、国民全体の幸福のために経済を運営することが基本だった。日本の偉大な経営者、松下幸之助の考え方もこれと同じであり、国家の目標は国民の幸福にあり、企業の役割は、国民の幸福に役立つ製品やサービス、雇用を提供することであり、企業が確保すべき利益は、企業の存続に必要な研究開発費や設備投資分だけで、暴利をむさぼってはいけないとしてきた。

こうした経済の哲学があったからこそ、日本は、過去12世紀のほとんどの間、西欧諸国よりも豊かであり続けたのである(この点については、渡辺京二著、『逝きし世の面影』葦書房刊をお読みいただきたい)。また今日の高い生活水準につながった高度経済成長期の底流にあったのも、こうした考え方だった。

残念ながら、1945年の敗戦以降、こうした経済哲学も、日本の伝統的考え方である儒教、仏教、神道、武士道も、日本では教えられなくなり、日本の古典も読まれなくなってしまった。その代わりに、日本が子供たちに教えるようになったことは、日本人を、また日本という国や文化、その歴史、哲学、さらには日本流の手法を軽蔑し、逆に米国の考え方や行動を崇め、模倣し、従うことだった。

それでも日本は1980年代半ば頃までは、頑強で健全な国であり続けた。それは、戦前の日本教育で育てられた人々が第一線にいたからである。その後彼らに代わって、マッカーサー率いる占領軍の植民地学校で米国流を崇め、模倣するよう教えられた人々が指導的立場に就くようになると、彼ら新人類は、日本流の経済哲学を学びもせず簡単に捨て去り、アングロ・サクソン流の経済哲学や行動をほとんど理解できないまま採り入れた。

アングロ・サクソン流の経済哲学や行動は、日本の伝統的な考え方とは正反対のものである。アングロ・サクソン流の経済学の最終目標は、資本の管理者の利益を最大限まで押し上げることにある。かつてはほとんどの国民が自分で自分の資本を管理していたが、現在では、資本の管理は大企業や金融機関だけにほぼ限られている。したがって、今日のアングロ・サクソン流経済学の第一の目的は、資本のほとんどを管理する大企業および大手金融機関の経営者の利益を拡大させることにある。こうした経営者は、企業会計における意味での利益拡大を目指すこともあるだろうが、私利私欲の追求に走ることがほとんどであり、株価や個人の報酬、手当て、個人の虚栄心のための企業規模などの拡大が目標になる。

しかし、ここで特に重要なことは、アングロ・サクソン流の経済学が重視するのは、絶対額の増加ではなく、相対的増加だということである。例えば、自分の年収がたとえ100万円であっても、周りの平均が10万円であれば、非常に金持ちだということだ。他の人と比べ10倍の購買力や影響力を持つからである。一方、自分の年収が1億円だったとしても、他の人の年収が10億円であれば貧しく感じる。なぜならば、他の人の10分の1しか、物やサービス、政治家、影響力などを買えないからである。

これでアングロ・サクソン流の経済学の目標が、日本の伝統的な考え方とは正反対であることがおわかりいただけたかと思う。日本は伝統的に調和を重んじ、誰もが同じ船に乗り合わせている運命共同体であるとして、その船が持ち上げられれば誰もが得をし、引き下げられれば皆が損をすると考える。しかし、アングロ・サクソン流では周りの人と比べた相対的な増加を望むので、自分の取り分を増やそうとすればするほど、その分相手の取り分を減らさなければならない。すなわちアングロ・サクソン的考え方の元では、協調をできるだけ崩そうとすることになる。

アングロ・サクソン流と日本流とでは、哲学だけではなく手法も正反対である。アングロ・サクソン人は競争を強調するのに対し、日本人は共に行う協力を重視する。

同じく理論も正反対である。アングロ・サクソン流では相対的な利益増加を無限に追求する、ということからもわかる通り、アングロ・サクソン人は、経済の理論を、物理学や機械学の体系を基盤に作り、継続的、また無限の成長を重視する理論を生み出した。一方の日本の経済学理論は、調和の伝統と生物学を基盤にし、生き物にはそれに適した大きさがあり、それを超えた成長は不健全で、危険であるという考え方に則っている。大前提が国民の幸福であるならば、国民が満足する時点までの経済成長は好ましいが、それを超えた過剰な成長は不健全であり、好ましくないという考え方である。

アングロ・サクソン流と日本流の経済学は、結果も正反対である。アングロ・サクソン流の自由競争は、まさにジャングルの弱肉強食と同じであり、少数の勝者と大多数の敗者を生み出す。それは、天文学的な額の所得や富を持つ一握りの大富豪と、生活のために必死で働かねばならない大多数の中流階級、そして貧困と不遇にあえぐ小数派で構成される社会であり、これはイギリスの私有地囲い込みと産業革命の到来、さらには米国で1960年代後半のニューディール政策中止以来、一貫して見られてきた光景である。一方、日本では、調和と協力の重視によって、国民の大多数は快適な生活を送り、大富豪や赤貧はほとんど見られないような社会を築いてきた。

マッカーサーの植民地学校で米国への盲従を教えられた新人類は、1985年頃から日本の指導的立場に就くと、日本が世界市場で競争力を維持するためには彼らの称する、またアングロ・サクソンの経済哲学の典型である「グローバル・スタンダード」を採用すべきだと主張し始めた。しかし、その主張は真実ではない。なぜならば、前述のように、日本経済の99%は国内経済によるものであり、海外に依存する部分はわずか1%に過ぎないからである。この割合は、1955年以来変わっていない。

GDPの内訳
個人消費 60%
民間資本形成 30%
社会消費 9%
純輸出 1%

これまで一貫して、日本の輸出はGDPの約10%、輸入は約9%であった。しかし、経済がどれだけ海外に依存しているかを見るには、輸出から輸入を差し引いた純輸出で見る必要がある。「輸出に依存する日本は円高になると打撃を被るので円安に誘導すべきだ」という主張をよく聞くが、GDPの10%に相当する輸出産業が円安で助かったとしても、GDPの9%を占める輸入産業はそれで困るため、全体としてはGDPの1%にしか恩恵は生まれない。

99%の日本経済は国内経済であり、国際経済に依存するのはわずか1%でありながら、その1%の経済の競争力を上げるために、過去12世紀にわたり国内で育んできたすばらしい日本の経済哲学や手法を捨て去るのはばかげている。米国やヨーロッパで営業を行う日本企業は、確かにその国の標準を採用しなければならないが、日本で営業を行う外国企業はむしろ日本の基準に合わせるべきなのである。