No.440 IT革命は本物か(5)

「IT革命は本物か」と題する小論の最後の部分をお送りします。

 

IT革命は本物か(5)

 

【 国民の幸福と成功のための生産性向上 】

3. 労働時間の短縮

日本の1990年代の生産性は、80年代の2倍、70年代の4倍、60年代の16倍に増えている。換言すれば、同じことを行うのに、90年代は80年代の2分の1、70年代の4分の1、60年代の16分の1の時間でできるようになったということである。ではなぜ、現代の労働時間が80年代、70年代、60年代とほとんど変わっていないのであろうか。

日本人の生活水準は10年前とそれほど変わっていないが、10年前に作っていたものを今は当時の2分の1の労働力で作り出すことができる。しかし、10年前と比べて労働時間は半分になったであろうか。20年前の4分の1、30年前の16分の1でできるようになったにもかかわらず、日本人の平均労働時間は1週間に4時間しか減っていない。日本の生産者である国民は、生産性が向上したにもかかわらず、労働時間は減らず、生活水準も大幅に改善されていないのはどうしたことであろうか。

日本の目標が日本国民の幸福であるのならば、生産性向上の一部は労働時間の短縮に充てられるべきだと私は考える。労働時間の減少分を、余暇や体力増強、知的向上、精神修養のための訓練や勉強、といったあらゆることに充てることができる。

生産性を大幅に向上させると同時に、通信や交通手段を駆使すれば、同じ時間に同じ場所で仕事をする必要性が減り、現在よりもはるかに短い、かつ好きな時間に、現在と同じ量の仕事ができるようになる。例えば、情報技術の恩恵を最も受ける情報労働者は、事務所で仕事をするのを週3日にして、1日は家で仕事をするということも可能になるのではないだろうか。出社が週3日になれば、地方に住まいを構え、週2泊は東京の安宿を利用し、週4日は自宅で過ごすという選択肢も考えられるようになる。地方に住めば、今より広い家を安い費用で借りたり、購入することができ、環境もより健康的になるはずである。こうした生活を行う社員の生産性は週4日勤務になっても今と変わらないはずなので、給与を削減する必要はない。こうした勤務形態を可能とすることで、より多くの時間を精神的、肉体的、知的な自己向上に充てられれば、会社は社員の幸福により貢献することになる。また自己研鑚や国民の余暇に充てる時間が増えることで、日本のGDPの86%を占める個人消費も刺激されるはずである。そしてこれを実現可能にするのが、ほかでもないITや他の生産性向上ツールなのである。
4. 教育の向上

最後に、日本の国民の成長を妨げ、それによって商品や需要が伸び悩んでいることの一つの理由が現在の教育制度にあると私は考える。技術の進歩によって生産性が着実に向上し、それによって製品やサービスの供給は一貫して押し上げられてきた。一方で、教育が国民の視野を広げるのではなくむしろ狭めており、それが製品やサービス需要の抑制につながっていると思う。国民の視野を狭めるのではなく広げる教育をすれば、国民の幸福は大幅に高まり、製品やサービスに対する飽くなき需要も生まれてくる。教育を変えれば、技術の適用により常に需要が供給を上回るという今の日本の苦境から脱出し、需要増に追いつくために生産性向上が必要となり、そのために様々な技術の進歩が役立てられるという好循環が生まれるであろう。

教育が日本国民の視野を狭めていることを示す例は数多くある。読書能力や読書に対する関心、国の歴史や文化に対する知識、好奇心、自分の頭で考える能力や習慣、自制心、自信、自律的動機づけ、他者への思いやり、国や社会に対する関心といった人間の広さを示す特徴は、今日の日本の社会では年齢とともに失われていくように思える。日本でも、平安時代以降、過去1200年間は、儒教、仏教、神道、武士道などの影響により、こうした人間の奥深さが育てられてきた。しかし敗戦後、日本古来の教育制度が解体されてからは、そうした価値観が教えられなくなり、それに代わる価値観が提供されることもなかった。

敗戦後の教育制度から価値観の規範が奪われたのが意図的であったことは十分考えられる。日本の戦後の教育制度はGHQが用意したものであり、これはアングロ・サクソン諸国に共通して見られる。アングロ・サクソン諸国はどこもみな少数独裁者に支配され、国民が独裁者をねじ伏せてからでないと、民主主義的改革が受け入れられたことはない。民主主義に公然と対抗しても無駄であることに気づいた少数独裁者たちは、国民に対し徐々に民主主義の形式や体裁をとりつくろいながらも、教育や他のマインドコントロールの手段を使って、国民を従順、かつ無知に保ち、それによって影では少数独裁を続けようとしてきた。(実際、昨年の米国の大統領選挙では、1億人の有権者に影響を与えるために5億ドルが使われたが、これが民主主義であろうか。金権政治そのものである。)アングロ・サクソン諸国の少数独裁者は、マインドコントロールが自国で功を奏したため、今度は全世界に自分たち流の民主主義を広めようとしている。教育制度や、広告に支配されたメディア、さらには広く浸透している人を無感覚にするような娯楽によって、少数独裁者は、国民にあらゆる形式や体裁の民主主義を提供することができ、その一方で支配権を握ることができる。

第二に、現在あるような大量生産、大量流通の経済は、消費者が従順で無知であればあるほどうまくいく。人間や動物以外の力を生産や流通にいかすためのエンジンやその他のツールは、つい最近まで、少数の製品やサービスを大量生産、大量流通することを奨励する「規模の経済」や「スケールメリット」を実現してきた。1つの規格品を大量生産できるメーカーは、製品をそれぞれ1つずつ手作りで作る職人に比べて、製造単価を低く抑えると同時に、販売価格も安くすることができる。流通販売業者も、多品種を少量ずつ流通販売する業者に比べ、大量製品を一度に流通販売する業者の方が、コストや料金を低く抑えることができる。したがって、今のような大量生産、大量流通の経済では、製造業者も流通業者も、独自の考えを持ち、個々の好みに応じて消費する国民よりも、他者と同じように行動し、業者が製造し販売する製品やサービスを何でも買ってくれる従順で単純な消費者の方を好むのである。したがって、彼らが画一的で従順な消費者を作り出す教育を奨励するのは言うまでもない。

第三に、日本の教育が、少数独裁者が政治目的に、また業界が消費者として容易に搾取できる、従順で単純な国民の大量生産を目的としていることは、その教育過程そのものから見てとれる。人間はそれぞれ生物学的に異なる。哲学者や科学者は、個々人が自分の特徴や能力を最大限に伸ばすよう奨励された時に、最大の幸福を達成できると述べている。したがって、国家の目標である国民の幸福に貢献する教育とは、そうした成長を促すものであるべきだと思う。さらに、国民に自分の頭で考えさせ、自分の行動に責任を持たせるための教育にとって大前提となることは、善悪の区別を教えることだ。平安時代から敗戦までの日本の教育では、それが大前提となっていたはずだ。逆に奴隷や、自分が搾取できる人を育てるためには、まったくその逆が大前提となる。すなわち、敗戦後の日本の教育がそうであったように、従順で順応的であるよう教えることである。日本では、父親には通勤と仕事にほとんどの時間とエネルギーを使わせ、また「亭主関白」などの言葉が示すように家庭における亭主の絶対的権力を軽蔑することで、行動で模範を示す父親の教育における影響力を失墜させた。それに代わって家庭内で力を持ったのが、「教育ママ」的母親の存在であり、子供に何をすべきかを一から十まで徹底的に指示することで、子供の自律的思考能力を奪い、言われたことに素直に従い、他者と同じことをするよう教育するようになった。こうした従順で順応的な子供を育てるための教育は家庭だけではなく、幼稚園から大学まで続く。2プラス2がなぜ4なのかを質問する生徒は、皆の前でくだらない質問はするなと諭され、とにかく言われたことを覚えるようにと教育される。そして子供たちは成功するためには、自分が正しいと考える答えを言うのではなく、期待されている答えを正しく暗唱することだと悟るようになる。また、他者と同じことをしなければならないということを教師の教えだけではなく、周りからの圧力によっても間接的に学ばされる。そして、こうした教育制度の賜物として、日本人は大人になるまでにすべての個性、好奇心、自分で考え、行動する能力を失っていく。ほとんどの日本の大人は、政治的に簡単に操作され、人材、消費者として搾取される無気力な人間である。

この過程が極みとなって今見られているのが、森首相やその政党に対する国民の軽蔑、さらにはその国民自身が軽蔑する人を政権に就かせるにいたった政治過程、それに対する海外からの冷笑などに端的に表れている。また経済的には、過剰生産能力により、倒産や失業、それに付随した社会問題が過去最悪の記録に達していることに表れている。

国家の目標が国民の幸福以外にはないことに気づけば、政治的、経済的搾取の対象を育てる教育ではなく、国民自身の幸福のための教育を始めるであろう。個々人がそれぞれ最大の幸福を手に入れられるようにするためには、個人の才能や関心を最大に高めるような教育が必要である。そして個々人がその時点の自分の必要性や好みに合った製品やサービスを要求し始めれば、製品やサービスの需要は供給を上回るようになるだろう。そして情報技術やその他の技術をいくら駆使しても、供給が需要に追いつかないという状況が生まれるに違いない。

そしてこの点こそ、情報技術が最大の貢献ができる分野なのである。情報技術は、大量生産や大量流通につきものの「規模の経済」に必要な生産性向上に貢献するだけではなく、規模の経済の過去の利点を減らすことも可能である。すなわち、職人や芸術家、あるいは他にはない唯一の製品やサービスを極めて少量ずつ作り出す専門職の競争的優位性を情報技術で取り戻すことが可能なのである。インターネットを利用すれば、こうした職人や専門職が作り出す製品を、低コストかつ簡単に全世界に広告、宣伝することができる。ITを活用した宅配サービスを利用すれば、いかなる場所へも商品を安く、早く納品できる。またITを利用した代金回収やクレジットサービスを利用すれば、支払いも迅速、簡単に行われる。

国家の目標が国民の幸福にあり、また教育の役割が、国民が最大の幸福を手にできるよう支援することにあるという点に気づけば、その副産物として、需要が常に供給を上回り、考えられ得るすべての技術を持ってしても供給が需要に追いつかず、倒産や失業などがなくなるという状況が生まれるはずだ。

【 まとめ 】

IT革命について言われているさまざまなたわごとは、愚かで無責任であるだけではなく、非常に危険である。

情報技術は、産業革命以来、動物の力以外のエネルギーを、商品やサービスの生産に適用するために開発された道具の1つに過ぎず、ITが持つ唯一の価値は、生産性向上にあり、物やサービスを生産する能力、有効なことを行う能力を高める力でしかない。

ITが生産性にもたらす影響力は、電球やエレベータに比べれば取るに足りない。それをIT革命などというのは愚かであるし、ITによってビジネスが革命的に変わると期待することは危険である。物やサービスを購入する人々はほとんどが、売る側の宣伝を信じてそれを購入する。誇大宣伝することは、顧客に間違った期待を抱かせることになり、結果としてIT製品やサービスを提供する側も危険に晒されることになる。

さらに、現在の日本の景気低迷は、製品やサービスの作り過ぎに起因しているということを忘れてはならない。製品やサービスの過剰供給が、無駄な過当競争を生み出し、それが過去最高の倒産や失業、それに伴う社会問題を引き起こしている。この苦境の真っ只中で、経済や社会のあり方の考え方を変えずして生産性をさらに増やすことは、問題を悪化させるだけなのである。

我々は、ITや他の技術から生まれる生産性向上を、自分たちを苦しめるのではなく、役立つように利用しなければならない。そのためには、我々の現在の経済に対する考え方、管理の仕方を変える必要がある。資本の管理者個人の利益を最大限にすることを目指すアングロ・サクソン流の経済の管理方法ではなく、国民の幸福を最大限にするために経済があるという日本の伝統的な考え方に戻るべきである。

経済を国民の幸福のために管理するには、最低でも次の手段をとる必要がある。それが最大多数の国民の幸福を高め、需要と供給の均衡を立て直し、生産性向上のためのITやその他の技術の需要を高めるものである。

(1) 収入の大部分を貯蓄に回す富裕者や権力者から、ほとんどの所得を消費する貧困者や弱者へと税負担を転嫁しようという動きを阻止し、その反対の方向へ税負担を移す。
(2) 生産性向上の一部を労働時間短縮に充て、その分を自己の向上や余暇に向ける。
(3) 社会消費を充実させる。
(4) 教育制度を、従順で単純な国民を育てるための教育から、個々人の能力や才能、好みを高める教育に変える。

しかしながら、こうした変革は一人ではもたらすことは不可能である。社会の一員である個人一人ひとりが、力を合わせなければ達成できない。これまで過去1200年間にわたって日本の先人たちが世界で最も豊かで幸福な国で行動し、考えてきたように行動すれば、そして利己的な考えを捨て、社会のために考え、行動してゆけば、自ずと道は開かれるはずだと私は信じている。