No.441 首席補佐官の座を手にしたアンドリュー・カード

今回は、今月1月20日に発足したブッシュ政権で、首席補佐官に就任したアンドリュー・カード氏に関する『ニューヨークタイムズ・サービス』からの記事をお送りします。このOur Worldメモでも何度か紹介している米国の天下り(米国では、役人が政府と私企業の間を行ったり来たりすることをRevolving Door、回転扉といいます)が、新政権にも見られることがこの記事からおわかりになると思います。アンドリュー・カード氏は、ブッシュ政権時代に次席補佐官、運輸長官を務めた後、米国自動車工業会の会長として業界のトップロビイストとして活躍し、その後GMの副社長を経て、今回、新ブッシュ政権の主席補佐官に起用されました。さらに、財務長官に就任が決まったポール・オニールも米アルミ最大手アルコアの会長でした。

 『日本経済新聞』などは、米証券ゴールドマン・サックス会長のルービン氏を大統領補佐官、投資銀行ブラックストーン出身のアルトマン氏を財務副長官に起用したクリントン政権第一期と比べると、ウォール街と距離を置いた人選であり、重厚長大型産業界の出身者を重視する傾向が見られるとして評価しているようですが、金融界も重厚長大型の大企業も、国民ではなく企業の利益を代表する可能性が高い点では変わりはないと私は見ています。

 特にこの記事で紹介されているカード氏は、米国自動車工業会(AAMA)会長時代、米国の自動車業界を代表して、日本に高圧的な態度をとったことで有名です。彼はAAMA会長時代、次のような発言をしています。「日米自動車協定はすでにその協定期限5年の半ばを越えていますが、この協定に盛り込まれている日本の市場開放努力はその目標の半分にもほど遠い状況です。日本は1995年に二国間協定を締結したにもかかわらず、規制された自動車市場を開放するために十分な行動をとっていません」  カード氏がブッシュ新大統領の首席補佐官として日本にどのような要求をしてくるのか、容易に想像がつくと思います。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

首席補佐官の座を手にしたアンドリュー・カード

『ニューヨークタイムズ・サービス』 2000年11月29日
エレイン・シシオリノ

 アンドリュー・カード・ジュニアは、1979年にジョージ・ブッシュ・ジュニアをメイン州ケネバンクポートで初めて見た時、若きブッシュをぱっとしない人物だと思ったという。ブッシュは前年の1978年、テキサス州の議員選に出馬したものの落選した。マサチューセッツ州選出の共和党議員だったカードは、当時、共和党大統領候補の指名を目指していた父親のジョージ・ブッシュを助けていた。そして父親と息子の間に貴族と平民ほどの歴然とした差を感じて面食らったという。インタビューでカードは、「大学出のインテリを想像していたが、会ってみたら西部の田舎者だった。ウェスタンブーツと汚いジーンズを履いて、タバコをかんでいて口がよだれで濡れていた」と語っている。しかし、好ましい点に話を移すと、「誠実で温かく、好感の持たれる人物だ。彼が立派で本物だと感じたので、私はすぐ彼が好きになった」と述べている。

 ブッシュが正式に大統領に任命されれば、カードは彼の主席補佐官として、ブッシュ政権の重要な地位に就くことになっている。長年カードと一緒に働いてきた人々は、カードは仕事に臨むにあたり、ブッシュ家に対する完全な忠誠心、貪欲な勤勉さ、命令に従おうとする意欲、御しやすい自我を持っていると語る。

 「カード氏はきらめく個性の持ち主というわけではない。物静かで地味な人柄で、はなやかな場面は似合わないが、馬車馬のように働く人物である」と、父親のブッシュ政権で国家安全保障問題担当だったブレント・スコークロフトはいう。

 ブッシュは、父親のコネを使わない、すなわちワシントンにとってはアウトサイダー的存在であることを選挙戦で強調してきた。一方のカードはワシントンのインサイダーであり、自動車業界やゼネラル・モーターズ社のロビイストだった。カードは、レーガン、ブッシュ両政権に属し、ブッシュ・ジュニアだけではなく、彼の両親からも絶大なる信頼を得ている。「私は彼の両親のためなら何でもする。彼らには大変良くしてもらったし、無限の愛情を感じる。私の妻のことも気にかけてくれ、子育てで直面した問題について私の相談にのってくれた。だがブッシュ知事への敬意は、彼の両親に対する愛情とは別ものだ」

 1947年5月10日、マサチューセッツ州ホルブルックに生まれたカードは、南カロライナ大学でエンジニアリングの学士号を取得した。33年前に結婚した妻(旧姓、キャサリン・ブライアン)と出会ったのはカードが小学校5年生の時だった。キャサリンは2年前にメソジストの聖職位を受けている。

 カードが政治に関心を持ち始めたのは、ホルブルック高校で1965年卒業生の生徒会長になった時だった。マサチューセッツ州の議員に4度選出された後、1982年の州知事選では落選している。しかし、その後の1983年、当時副大統領のジョージ・ブッシュの後押しにより、カードはレーガン政権下のホワイトハウスで、平凡だが相当高い地位にある役人との連絡役を命じられた、とレーガン、ブッシュ両政権時代の高官たちは述べている。その後、彼はレーガン政権にも留まった。

 「ブッシュ副大統領は他の人事についてはほとんど口出ししなかったが、アンディ・カードだけは積極的に後押しした」と、ブッシュ政権の人事担当官、チェース・アンターマイアーは回想する。

 1988年の大統領選の勝敗を左右したニューハンプシャーの予備選挙で、父親のブッシュ陣営の選挙参謀を務めたカードは、ブッシュが政権に就くとその褒美として大統領の次席補佐官の地位を与えられ、政権最後の年には運輸長官に任命された。

 その年、ハリケーンがフロリダを襲うと、「対応が手薄で、遅すぎる」とのブッシュ政権に対する批判をかわすために、大統領の個人的使者としてカードが現地に派遣された。ブッシュ政権で最後までワシントンに残った1人がカードで、クリントン政権移行後も2ヵ月間は引継ぎのためにそこに残った。バーバラ・ブッシュはカードについて、ブッシュ夫妻を何度も助けてくれた男だという。

 その後も、カードはワシントンに残り、自動車業界のトップロビイストに転じた。1993年、米国自動車工業会(AAMA)の会長兼最高責任者の地位に就いた彼は、自動車の燃費や大気汚染の規制強化に対するロビイ活動を監督し、工業国が温暖化への対応を遅らせるべき理由について専門的見地から説明した。1998年、AAMAがなくなると、カードはGMの副社長に転じ、ワシントンで同社の政府対応を担当した。

 首席補佐官の職についてカードは、「非常に光栄でわくわくする。荷は重いが、尻尾を巻くのではなく、積極的に挑戦してみようと思う」と語っている。