今回は、ニューヨーク在住のエコノミスト、マイケル・ハドソンより送られた『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙の記事で、「日本株式会社」を特徴づけてきた株式の持ち合いが解消されていることに関する記事です。系列関係維持等の理由から、株式を所有する安定株主から利益第一主義の投資家、特に外国人投資家に株の所有が移ることによって、日本企業が顧客や社員の利益よりも、株主の利益を最優先しなければならなくなると懸念されます。最後に、ハドソンのコメントもつけましたので、是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
不況で揺らぐ日本株式会社の伝統:
忠誠心に基づく長期的な企業連合の解体
『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙 2001年3月2日
ジョン・ニコリスは高層ビルの上層階にあるトレーディングフロアで、3人のやり手ブローカーの後ろに自分の椅子を持っていって座るのが好きだ。そこからは富士山が見えるだけでなく、解体する「日本株式会社」を間近に見ることができるからである。
ある朝、ニコリスの仲買人のところに一口5億ドル(約550億円)もの日本株の売り注文の電話が殺到し、仲買人たちはすぐさまそれを他の売却の仲買人に引き渡した。日興ソロモン・スミス・バーニー証券の3人のやり手ブローカーは、多い日は1日に100件もの取引を引き受けることもある。
100年以上にわたり、株式持ち合いは日本企業の特徴であった。銀行が貸付先の株式の多くを所有し、またその逆に債務者が融資先である銀行の株式を所有していた。こうして結び付いた多くの企業は、三菱、三井、住友といった巨大な企業グループを形成してきた。こうしたグループ化が各企業の資産を互いに結び付け、企業を買収から守った。しかし、長引く日本の不況により、親密な企業間関係を維持することが資金面で不可能になってきた今、企業の系列化という制度そのものが解体しようとしている。
その結果が、ニコリスのトレーディングフロアで見られる光景だが、ニコリス自身は、「自分たちは単なる仲介者に過ぎない」と述べている。
実際、過去50年間に日本でこれほど多くの企業の所有権が移行したことはない。かつての安定株が容赦なく売りに出されていることが、最近の日経平均株価の急激な下落と、さらに10年間におよぶ株価低迷の主な要因である。3月1日、日経平均は、1万2,668円61銭で引けたが、これはここ15年で最低の数字であり、1989年の最高値から比べると3分の1である。こうした株価の下落が日本の経済状態を悪化させ、日本企業による持ち合い株の売却にさらに拍車をかけている。
ニッセイ基礎研究所の研究結果によれば、最新データである日本企業の1999年の株価総額のうち、安定株は38%であり、これは1992年には48%だったという。「企業関係維持を理由に金融機関や他の企業が長期的に保有する株式」と定義される安定株のうち、1999年だけで12分の1の所有者が変わっている。スパークス・アセット・マネジメント投信の社長、阿部修平は、株式の主要売却者である日本の銀行が、2001年に株式時価総額3~5%相当の株式を売却すると予測する。
その大きな触媒となるのが今年適用される新しい会計規則であり、これにより銀行は初めて所有株式を時価評価しなければならなくなる。つまりできるだけ多くの株を売却しない限り、株価の下落によって資本基盤が侵食され、銀行の貸付能力が麻痺するということだ。
危ういのは資本だけではなく、日本の企業文化全体もそうである。欧米企業の経営者とは異なり、日本の経営者は企業を売買対象の資産ではなく、一つの社会として捉える傾向にある。したがって株式売却の決断は断腸の思いとなる。
日本電気株式会社の執行役員、鈴木俊一は、時代の変化に合わせた日本電気の改革が担当であり、その仕事の一つが同社に必要不可欠ではなくなったビジネス・パートナーの保有株の売却である。昨年10月、彼は川崎にあるそうしたビジネス・パートナーの一社を訪れ、旧来の知人である2人の経営者に悪い知らせを告げた。「彼らをどれだけがっかりさせたことか」と鈴木はいう。
こうした持ち合いの解消は、日本も経済や社会の慣習の変革ができることを証明するものである。株式持ち合い率が減少すれば、日本企業も欧米企業のように、敵対的買収の標的にされるのだろうか。日本の経営者たちは、利益を犠牲にしても雇用を守るという伝統などお構いなしの、新しい株主にへつらわなければならなくなるのだろうか。
戦後の日本では、主要企業が敵対的買収に遭うことなどなかった。今も大多数の企業が売却を中止したり、あるいは遅らせようとしている。しかし、持ち合い株の売却により、日本株式会社も、日に日に西洋のモデルに近づきつつある。
リーマン・ブラザーズ証券在日代表の安田育生は、製薬会社を含む顧客企業に対し、買収を防ぐためのアドバイスを提供し始めた。投資銀行家は、日本企業が売却する株式の新しい所有者を募るため、複雑な取引を考案している。そして、多くの株式が外資の手に渡っている。外国人持株比率は、1989年には日本の株式時価総額の4%相当であったが、1999年には19%に増加した。そして昨年、外国人投資家は株式の主要な売り手であったが、今年は買い手に転じた。
こうした状況への適応には、日本の大企業でさえ苦労している。2001年1月、トヨタ自動車は、昔からの株主が売りたがっていた同社の大量の株式をひそかに機関投資家に引き受けさせようとした。それによって公開市場での大量株売却で起こる値崩れを食い止めたいと考えたのである。しかし、トヨタ自動車の株価は大幅に下落した。その後、同社は、日本史上最高額20億ドル相当の自社株買戻しを発表した。
大手電機メーカーのシャープも、2月末に、16年間で2度目の配当金増額を発表した。なぜだろうか。シャープの副社長、塩津晴二の言によれば、シャープの大株主5社には銀行が3行含まれており、その銀行がシャープ株の売却を余儀なくされることを恐れているという。そうなればシャープは、安定した投資家を新たに探さなければならなくなる。「株価引き上げの努力が必要なのである」と塩津はいう。
この発言自体に、日本企業の態度の変化が見られる。何十年間にもわたり、日本の経営者は株価に注意を払う必要がなかった。なぜなら、仲間である関連企業が自社の株を売却することなどあり得なかったからである。
こうした伝統が確立したのは1950年代のことである。第二次世界大戦後、米国の占領政策により、日本の戦争経済の原動力となった財閥が解体した。しかし、1952年に占領体制が終わると、元財閥企業は関係強化と敵対的買収に備え、互いに株式を持ち合うようになった。こうして新たに生まれた企業グループが系列であり、日本政府が外資規制を緩和し始め、欧米の多国籍企業による乗っ取りに対する危機感が生まれた1960年代、その株式持ち合い比率は徐々に増えていった。
日本電気は、住友系列の中心的存在である住友銀行からの資金調達で世界的な電子部品企業に成長した。その代わりに日本電気は、住友グループの主要企業として、より小規模な企業を支援したのである。例えば1933年に計測器メーカーである安藤電気に50%出資している。
【 系列の解体 】
しかし、1999年になると住友系列のつながりは弱まった。住友銀行は不良債権処理にあたり損益をプラスにするため、日本電気への出資比率を減らした。日本電気は半導体価格の暴落と、過去最悪の損失に苦しむ中、株主からの厳しさを増す要求の大合唱に晒されていた。
日本電気の執行役員、鈴木俊一は、系列企業が構成する巨大帝国を見て、「この系列にメスを入れるしかない」と思ったという。鈴木は、日本電気が所有する安藤電気の発行済み株式15%を売却すると同時に、その他上場企業2社の持株比率も減らした。コンサルタントは鈴木に、「安藤電気には将来性があるものの、競争力を維持するためには巨額の投資が必要であり、日本電気はそれを提供できない」と警告したという。
安藤電気の社長、本橋正夫は、災いの前兆を見てとった。長年にわたり日本電気は安藤電機を大切にし、日本電気からの発注が安藤電気の売上の大半を占めてきた。「我々は甘やかされていた」と本橋は認める。
昨年10月、旧知の間柄である鈴木と本橋は、質素な会議室の机を挟んで向かい合った。「安藤電気はもはや日本電気の主要ビジネスの一部ではない」と鈴木がいうと、安藤電気のもう1人の経営者が、「もう少し株式を保持してくれれば、半導体事業が開花する」と、もっと時間をくれるよう嘆願したと、鈴木と本橋は回想する。
そして鈴木は「日本電気は資本を提供できないので、その花は開かない」と答えたという。日本電気が残る持株ほとんどの売却を進めようとする中、安藤電気の本橋は、会社の行く末を案じた。「夜中の3時に目が覚めて、会社のことが頭を離れなかった」と彼はいう。
2001年1月までに、2人は安藤電気の株の取引を完了した。その取引とは、日本電気が保有していた安藤電気の発行済み株式35%のうち33%を、1億1,200万ドルで横河電機に売却するというものだった。横河電機は、国内トップの工業計器メーカーであり、安藤電気が必要とする資本を提供できるものと思われた。さらに鈴木は、系列企業2社の保有株も売却し、また他の企業の保有株も売却の予定だという。
【 元官僚の転職 】
鈴木が日本電気の保有株の売却を計画している頃、村上世彰という元官僚が転身を図った。現在、41歳の村上は、1950年代に株の持ち合い増加を促進させた通産省に16年間勤務した。1999年、彼は通産省を辞職し、割安になった企業の買収資金を集め始めた。株式市場がそうした企業の株で溢れているのを目にすることが多くなったからである。「自分が買いたいと思った銘柄はなんでもすぐに手に入った。銀行が、狂ったように売りに出していたからだ」と、村上は、事務所に使っている東京のアパートの1室で語った。
しかし、村上が手がけた最初の取引は、日本の変化にはまだ限界があることを示していた。1年前、村上は不動産の売却益を得るために、東京の小さな不動産会社を買収しようとした。しかし、その売却対象に考えていた不動産会社の系列が資産を守ろうと、この取引を妨害したのである。
村上は別の方法をとった。不採算ホテルチェーンの約5%の株式を買い取り、そのホテルチェーンの筆頭株主に、その株主が経営するホテル事業とこのホテルチェーンを合併するよう説得した。また村上は、空圧機器メーカー、SMCの株式8.3%を保有する金属精錬業者の株式も取得し、精錬業者に長年所有するSMCの株式を一部売却するよう勧めた。
SMCの専務取締役、白井二朗は、すでに雪崩の到来に備えていた。というのも、同社の昔からの株主であるさくら銀行の幹部からも、昨年夏に、同行がSMCの株2.6%を売却する予定だと聞かされていたからである。「どうすることもできなかった」と白井は語った。さくら銀行はコメントを控えた。
白井はSMCの株価が急落することを恐れ、さくら銀行と精錬業者が売却する株を吸収するため、急いで第二次分売を手配した。なるべく早く新しい投資家に株が渡れば、公開市場で投売りするよりは株価の下落幅が小さく抑えられると白井は期待した。2月13日、SMCは256億円の株を機関投資家などに引き受けさせたが、翌日、同社の株価は大幅に下落した。
【 外国人投資家の行列 】
今、白井は外国人投資家という、新たな厳しい監督者の要求を満たさなければならなくなった。2000年3月締めの1年間で、SMCの外資所有株の割合は18%から24%に増加した。彼は、最近立て続けに訪れた外国人投資家がどこから来たかを、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、さらにはロンドン、フランクフルト、イタリアと、逐一挙げた。
「外国人投資家の訪問が跡を絶たない」と、白井は、もうお手上げといった様子である。「そして外国人投資家は、どんな計画なのか、今四半期、また次の四半期の売上はどうかと、こちらが答えに窮するほど、立て続けに質問してくる。もちろん株主なので追い返すことなどできない」
この種の圧力こそ、日本企業が資産から十分な利益を絞り出せない(多くの経済学者が日本の最も根本的な問題だと見ている)状態から抜け出すための助けとなる。
しかし、企業の中には、古くからの投資家を維持しようと必死になっているところもある。総合重機、船舶、航空・宇宙機器メーカーの石川島播磨重工業の坂本が行っている仕事がそれである。坂本は、石川島播磨の安定株主の割合が、過去10年間で5%減り、2000年には約45%に減じるのを目にしてきた。2001年3月末にはさらに40%まで落ち込むだろうと彼は見ている。
石川島播磨にとっては安定株主が依然として要塞の役割を果たしてくれているものの、坂本はその要塞がいつか破られる日が来ることを恐れている。2000年、石川島播磨は790億円の損失を出したが、同社には強力な航空・宇宙部門、貴重な土地があり、株式時価総額は低い。同社の経営者は、ある日、外部から人が来て、航空・宇宙部門以外のすべての部門をつぶしてしまうのではないかと恐れている。そこで、坂本は、新たな株の持ち合い相手を探すのに忙しい。
加えて、売却に対する防衛も行っている。石川島播磨の財務部門から、昔からの株主が同社の株の売却を考えていると聞くと、坂本はまず売却を思いとどまるよう説得する。売却阻止できない時は、せめて売却数を減らしてくれるよう交渉する。また必要に応じて、強攻策にも出る。2000年には、石川島播磨の株の売却を計画した銀行に対し、同行との取引停止も辞さないと伝えると、その銀行は売却する株の銘柄を再考することにしたという。またある保険会社が同社の持株比率を減らしたため、同社との保険取引額を減らしたと坂本はいう。
【 伝統の影響 】
伝統の影響もまた、系列解体に対するブレーキの役割を果たす。3つの大手金融会社を含む持株会社、みずほホールディングスは、2003年までに、同社の保有株式30%に相当する、約260億ドルの株式を売却する予定である。みずほグループの1つの銀行の会長、藤澤義之は、彼の経営する銀行は、すでにその目標の半分を達成したと述べている。しかし、これだけ大量の株式を売却しても、企業との関係維持上、みずほが大株主であり続けることに変わりはない。企業との株式持ち合いは、日本の銀行が顧客企業に提供できるサービスの一つだという。
それにもかかわらず、日本で最高の業績をあげている企業の多くが、ますますこうした心地よい関係を解消しつつある。光学ガラスメーカー最大手HOYAの社長である42歳の鈴木洋は、自分の椅子や前にあるクリスタルの灰皿を指して、「これも、あれも、すべて株主のものだ」という。HOYAが他社と異なる点は、同社を育ててきた銀行が、もはや株主に含まれていないことである。
鈴木の祖父が創設したHOYAは1966年に倒産寸前に追い込まれたが、三和銀行が救済に立ち上がり、同社の債務を繰り延べし、経営陣を再編成した。HOYAは立ち直り、半導体用エッチング・テンプレートなどのハイテク製品を製造するまでに成長した。その見返りとして、HOYAは、三和や他の忠実な支援者に銀行業務を任せた。
しかし1990年代初頭になって、日本の資産バブルが崩壊し、HOYAの経営陣は長い不況に直面した。銀行からの融資を減らし、7年前に負債ゼロを達成した。そして、三和銀行を含む大株主に、株式保有率ではなく、最も有利な価格を提示した企業と取引を行うと伝え始めた。
1999年、鈴木の父、哲生は、三和銀行の取締役として迎えられたが、昔の馴れ合いの関係には戻らなかった。1999年11月以降、取締役会議で哲生は毎回、三和銀行に持ち合い株の売却を促し、三和自身の貸借対照表を立て直すよう説いていたと、両社を知る人々は語る。
1999年3月から2000年9月に、三和銀行は、保有するHOYAの発行済み株式4.9%をすべて売却した。2000年、鈴木洋は、HOYAの資金管理契約の1つを外部に委託することにしたが、それまでHOYAの資金管理のほとんどを任せてきた三和銀行やその他の銀行株主ではなく、ヨーロッパの銀行と契約を結んだ。HOYAは、現在の大株主である2社の保険会社に委託している保険契約も、入札にかける予定である。鈴木は、この保険会社2社は、HOYA株を売却するだろうと見ている。それによって、HOYA株の外国人持株比率が31%から50%以上に跳ね上がると鈴木は語った。
収益最優先の投資家がHOYAを買収することになったらどうするのかと尋ねると、鈴木は肩をすくめ、こう答えた。「結局のところ、HOYAを所有しているのは私ではないのだから」
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ハドソンのコメント
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米国が株の持ち合いを解消するよう日本政府に圧力をかけ始めたのは1995年頃である。1986年から1995年までは、日本の株式の約半分は、投資目的ではなく、系列関係維持などの戦略的目的で株を持つ銀行、保険会社、事業会社が保有していた。しかし4年後の1999年には、それが40%にまで落ち込んだ。
今日の日本の株価低迷の最大の要因は、こうした企業と利害関係をともにするステークホルダー(銀行、保険会社、事業会社)が過去10年間に保有株の約20%を売却した結果なのである。その大部分を購入したのは外国人である。1987年には5%未満だった外国人持株比率は、1995年には10%を超え、1999年には20%に近づいている。この2つの事実から、日本の銀行、保険会社、事業会社が持ち合い解消で売却している株式が、日本人投資家ではなく、外国人投資家に売られていることがわかる。前掲の記事からも明らかなように、その傾向は、特にハイテク企業に多く見られる。
さらに悪いことに、こうした持ち合い株の売却によって、市場が吸収できないほどの株が市場に放出され、値崩れにつながった。今日の株価は、プラザ合意以降最低となっており、日本の銀行の支払い能力に悪影響を及ぼしている。これが日本の貯蓄の米国への流出を加速させ、それと同時に、日本の銀行の支払い能力低下、そして外資による銀行の買収増加という結果をもたらしている。
現在の株価暴落は起こるべくして起こったのではない。米国からの圧力に負けて自民党がとった政策が招いた状況なのである。