No.472 もはや沈黙していてはならない

今回は、各国で規制緩和およびグローバル化における失敗が認められ、再国有化への動きや国民による抗議運動が多発していることを指摘する記事をお送りします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

もはや沈黙していてはならない

『オブザーバー』紙 2001年4月8日
ノリーナ・ハーツ

 米大統領選後、“チャド”(パンチカード式の投票用紙で打ち抜かれる紙片)が投票用紙にぶらさがったままのハンギング・チャドや、膨らんだまま打ち抜かれていないプレグナント・チャド、誰に投票したかを解読するのに博士号が必要かと思われる投票用紙ばかりが話題となり、真の勝者が誰かを巡る混乱よりももっと危惧すべき事実がまったく顧みられなかった。それは、この大統領選挙の棄権者が9,000万人以上にものぼることである。この数字はイギリス、アイルランド、スカンジナビア諸国の人口の合計を上回る。

 投票率が低いのは、米国に限った現象ではない。労働党が圧勝した1997年のイギリスの総選挙では、投票率は戦後最低の69%だった。1999年の欧州議会選挙では投票率は50%を下回り、イギリスでは25%にさえ満たなかった。2000年、イギリス、ウェストヨークシャー州リーズセントラル市の中間選挙では、投票率はわずか19%だった。次のイギリス総選挙では、投票率の最低記録がさらに更新されると見られる。

 政府の存在理由を国民はもはや理解できずに、政治に対する信頼を失った。過去20年間に政府は公共の領域からじりじりと撤退し、公的部門の規定は政府ではなく企業が行うようになってきた。政府が規制を撤廃あるいは緩和したため、企業は自分たちで契約の条件を設定している。特に第三世界では何もかもが競争になった。多国籍企業は最も有利な投資条件を引き出すために発展途上国を互いに競争させ、規制もお役所手続も組合もない、環境悪化にも目をつぶってくれることを望んでいる。これは、利益のためには都合良くても、労働者や地域社会には悪影響をもたらす。企業が利益を求めて参入してくれば、投資受入国の政府は企業の搾取を受け入れる以外に選択肢はない。グローバル化がもたらすものは自由勝手であって、仲間や平等ではない。

 ジュネーヴ湖のほとりにあるWTO本部では、国民の権益を保護するために国家の能力を制限する自由貿易という名目のもと、さまざまな裁定が下されている。合成ホルモンは発癌性があり、男性の生殖能力を減じ思春期の低年齢化を引き起こす可能性を持つという強力な証拠があることから、欧州連合は牛の成長促進剤に合成ホルモンの域内での使用を禁止しようとしたが、米国の大手総合化学メーカー、モンサント社、米国肉牛生産者協会、米国乳製品輸出協会、全米生乳生産者連盟の利益を優先するWTOの決定により、禁止できなかった経緯がある。また、倫理的あるいは環境保護の立場から受け入れられない企業に対し、各国政府が不買運動あるいは懲罰関税を課すのを、WTOは、これまで幾度となく阻止してきた。

 ドイツでは、過去20年間で企業収益が90%増加したにもかかわらず、法人税収が50%も減少したため、1999年にラフォンテーヌ蔵相が法人税増税を提案したが、ドイツ銀行、BMW社、ダイムラーベンツ社、RWE社といった企業に反対された。企業側は、自社の意向に沿わない政策をドイツ政府がとれば、工場を国外に移転させると脅迫したのである。「これには、少なくとも1万4,000人の職がかかっている。投資環境が魅力的でなければ、投資先を国外に変える方向で、すべての可能性を検討するだろう」と、RWEのスポークスマン、ダイエター・シュウェアーは語った。ダイムラーベンツは米国への移転をほのめかし、また他の企業も国債の購入とドイツ経済への投資を中止すると脅した。これら企業が持つ影響力ゆえ、その脅しは深刻に受け止められた。ドイツ政府は数ヵ月のうちに法人税が米国のそれより低くなるよう法人税の引き下げを計画した。シュレーダー首相の上席アドバイザーの1人はワシントンで、「ドイツ銀行やメルセデスなどの大企業の存在は、ドイツ政府にとってあまりに大き過ぎる」と語った。

 米国では、ブッシュ新大統領の企業後援者が新政権に見返りを強要していることがあからさまになった。就任以来、ブッシュ大統領は北極の野生動物国立保護区の石油採掘業者への開放、森林保護の公約の撤回、採掘会社に対する浄化義務の緩和、発電所に対する二酸化炭素排出量規制に関する公約の撤回、温暖化に関する京都議定書の放棄などを次々に発表している。新政権は、米国民の利益を犠牲にして総額4,700万ドルの政治献金を提供した大手電力会社の利益を優先したのだ。

 ここイギリスでは、ますます多くの公共サービスが、管理面でも資金調達でも民間企業の手に渡っている。すでに鉄道は民営化され、航空交通管制も民営化されようとしている。加えて、国民健康保険制度崩壊の防止措置として、健康保険の民営化も保守党員によって推し進められている。かつては公共サービスの最も神聖な領域であった教育でさえ、民間部門に委ねられる例が増えている。公共サービスの完全な民営化の結果を判断するのは時期尚早だが、初期の徴候だけでも悲惨である。レイルトラックのCEO、ジェラルド・コーベットは、鉄道の衝突事故は民営化で鉄道が分断されたためだとしている。また、民間企業「ケンブリッジ・エデュケーション・オーソリティ」が経営するイズリントの小学校エンジェル・スクールは、学生の成績が向上しているにもかかわらず、閉鎖の危機に晒されている。両親や職員には実質的な救済策や拠り所はまったく提供されていない。ノッティンガム大学は、ブリティッシュ・アメリカン・タバコから「企業の社会的責任」学部設立費を含む資金として380万ポンドを受け取り、米国のヘルスケアを手本にイギリスの健康保険改革を進めるよう提唱している。しかし米国では、現在、4,500万人の人々が健康保険に加入せず、慢性病患者の25%に対する保険の支給が不十分というのが現実なのである。

 これが知らぬ間に公共サービスが民間企業に乗っ取られた世界であり、ここでは国民の権益を保護してくれるような、頼れる政府はいない。市場の魔力に魅入られた政府は、企業の利益を優先するからである。

 ここで主導権を握るのは、我々しかない。個々人が行動に出ることによって、主導権をとるのである。実権が政府ではなく企業に握られている世界では、政治力を高める最も効果的な方法は、選挙会場ではなくスーパーや株主総会で一票を投じることである。

 なぜならば企業は消費者からの反発に弱い。政府は遺伝子組換え食品が健康に与える影響を悠々と議論していても許されるが、スーパーは消費者の反乱に直面すれば一晩で商品を店頭から引き上げるだろう。国家は外交政策が倫理的でなければならないと論じるだけだが、企業なら消費者から非難を受けるくらいならビルマから撤退するだろう。ブッシュ新大統領は二酸化炭素排出量を削減するという選挙公約を撤回したが、ブリティッシュ・ペトロリアム社は先頭に立って削減を進めている。リーボックが低賃金で子供にサッカーボールを作らせていることが暴露されたとき、政府は何をしたかといえば何もしていない。しかし、消費者の不買運動を恐れたリーボックは、幼年労働問題に対して革新的な行動指針を用意した。

 今、消費者が企業に求めるのは、高品質の製品を手頃な価格で提供することだけではない。消費者満足度の鍵は、消費者への対応の良し悪しだけではなく、社会に対する責任を真剣に果たしているかどうかである。人々は政府が提供できない、または提供しないことを、企業に提供するよう求めているのである。

 これは玄米を食べ、サンダルを履く一部の進歩派だけの要求ではない。イギリスの消費者の60%は、倫理基準に懸念がある場合、製品や販売店に対して不買運動を行う用意があるといい、また4分の3は、環境や倫理面を判断して商品を選択するとしている。75%以上の米国人は、労働者が搾取されている工場で作られた商品を扱う店では買わないとしている。モンサント社は、環境運動家とイギリスの地方都市婦人会の連合に屈服させられた。米国では、「共同責任のための異教派センター」が1,100億ドルの資金を投じ、株主の力を利用して企業の自由を規制し、良心的行動をとらせるようにしている。

 消費者や株主の活動に公益を委ねて良いのだろうか。また買い物という行為で、投票に匹敵する威力が発揮できるのだろうか。それは不可能である。なぜなら、世界は、消費者による政治運動だけで対処できるほど、単純なものではないからである。遺伝子操作された食品は、消費者または環境にとって、絶対に悪いといえるのか。あるいはその技術を良い方向に使えないのか。幼児労働は西側の倫理に照らし合わせれば嫌悪感を覚えるかもしれないが、不買運動を行うことで第三世界の多くの子供たちの状況が改善するのだろうか、それとも悪化するだろうか。

 市場に規制を委ねることは、我々の最終的な利益にはならないかもしれない。さらに一般大衆向き政治を行えば、過半数ではなくとも最も効果的に反抗する人々による専制政治につながる可能性が高い。消費者や株主の積極行動主義は、すべての国民の力を強めるのではなく、最大の資金力、最大の購買力を持つ人々、購入先を容易に変更できる人々に最大の発言権を与える。消費者および株主の積極行動主義は、中流階級のための抗議であり、中産階級の不満のほとばしりなのである。

 企業が政府の責任をとるようになったために、政府が撤退したと考えるべきではない。社会的領域で企業がその役割を果たし始め、貧困や貧富の差の緩和、環境保護に企業がある程度貢献できることは確かだが、社会投資や社会正義が企業活動の中核となることは決してあり得ない。企業が社会のニーズに対して行う貢献は、常に脇役的なものとなるだろう。企業の社会的責任が、国家の責任にとって代わることはあり得ない。

 日本の三菱自動車や日産、トヨタの拠点では、各系列企業が、学費、住宅、健康保険を提供していた。しかし、アジア金融危機の後、系列企業はこうした支援から手を引き始めている。東芝の経営トップは、もはや慈善事業を続けられないと述べた。その結果、地域社会全体が打撃を受けている。日本の自殺件数は、1997年から1999年に33%増加した。社会的な緊張が高まっている証拠である。公的部門がますます民間部門の管理に委ねられる中、この日本の状況を教訓とすべきである。黒字企業は慈善活動費を法人税から差し引くことができるため、世界経済が今後も堅調であり続けることを前提に、西側企業が政府に代わって責任および支援を増やしていくだろうと考えているとすれば、景気が悪くなればその傾向が逆転する可能性もある。企業が、社会的コミットメントからの撤退が信用をどれだけ傷つけるか、そして信用回復が信用の維持よりもはるかにコストがかかることを計算に入れていなければ、株主に対して社会的コミットメントの継続を正当化することはできないだろう。企業に福祉を依存することは、企業が継続的に利益を生み出さない限り不可能である。

 また、企業の慈善行為には、代償が伴うかどうかも考える必要がある。現在、マイクロソフトは学校にコンピュータを寄贈しているが、これによって子供たちが将来何を学ぶかが左右されることはないだろうか。19歳の学生マイク・キャメロンは、「コカコーラの日」にペプシのロゴ付きTシャツを着て、エバンズ・ジョージアにあるグリーンブライアー高校に登校したために停学処分を受けた。チャネル・ワン・ネットワークは、アメリカの1万2,000校に寄付金を提供する際に、教室でのコマーシャル放映を条件にして悪評をかった。子供の学習支援資金の不足に付け込み、テレビ広告が入り込むような世界で我々は暮らしたいのだろうか。これは倫理ではなく、ビジネスの問題である。これら2つの目標が一致する場合もあるが、常にそうでないことは明らかである。

 企業は社会の監視人ではない。利益追求に基づき行動するのが企業体であり、倫理面の考慮はしない。企業の利害と社会の利害が一致することも多いが、必ずしもそうではない。一方で、国民に対して責任を果たすのが政府である。企業の積極行動主義を優先して国家の役割を退化させることは、社会の改善を利益の創造に委ねる恐れがある。企業による乗っ取りに対し、政府が競争規則も決めず、支配的立場をとれずにただ後ろに引き下がっていれば、国民からの支持を失う危険性がある。国民が拠り所や代表を失ったと感じていることは、消費者個人の行動や株主の不満を超えた抗議運動の増加に表れている。

 フランスの農民ホセ・ボベの裁判に集まった4万人のフランス人、大企業と政治の癒着に抗議するために米国をデモ行進し、ワシントン到着時には何千人もの人々に祝福された91歳のグラニーD、そして昨年テレビで放映されたシアトル、プラハ、メーデーでの暴動参加者など、すべてが政治的に見捨てられたと感じている人々の反乱である。

 世界中で、企業、政府、国際社会に対して人々が抗議をし始めている。政治家がすべて同じ聖歌を口にする世界で、その歌を変えたいと考える人々は教会の外に出なければならない。

 しかし、消費者や株主の積極行動主義のように、違った形で抗議を行うことを理想化してはならない。そのやり方には明らかに限界がある。利害の一般化は、特定の懸念あるいは解決策よりも、むしろ幻想の共有によって生じることが多い。抗議者たちは、公益を意識している場合もあるが、自分たちの利益、あるいは2000年秋のイギリスの燃料に関する抗議のように、限られた団体の利益を守ることだけを主眼としたものもある。

 圧力団体は、メディアに圧力をかける必要がある。メディアは擁護の難しい難問よりも、気取った問題や敵を悪魔として描いたり、問題を簡略化したり、時流のものを優先する。アフリカの森林の生物多様性、硝酸塩の浸出、土壌の侵食といった問題は、メディアではほとんど取り上げられない。またロンドンのメーデー抗議参加者の1人が私に語ったところによれば、「騒ぎが起きなければ、新聞は報道しない」という。

 抗議運動には限界があり、効果的手段だが民主的ではない、長期的な解決策にはなり得ないといった欠点はあるが、重要な問題は、抗議運動で企業の課題を変えさせ始めたのと同様に、政治まで変えることができるかどうかである。抗議運動で、国民を政治の最前線に引き戻すことができるのだろうか。

 確かに、その可能性を示唆する徴候がある。政治的には死人同然の国民に、神経が戻り始めた兆しが見られる。1999年6月、ボリビアで3番目に大きな都市コチャバンバで、世界銀行の提案を受けて水道局が民営化された。すると水道料金が3倍に跳ね上がり、一般労働者の月給のほぼ4分の1を水道料金が占めるようになった。このとき、国民は4日間にわたりゼネストを行い、水道料金の支払いを拒否し、3万人が市の中心に向かって怒りの行進を行った。最終的に2000年4月、水道サービスの民営化は取り消された。1985年、政府指導者はボリビア国民に、新自由主義改革を実施する間の忍耐と犠牲を求めた。それから15年後、国民の忍耐は限界に達したようである。

 ニュージーランドは、1980年代初め、自由市場の原理主義を採用した国であるが、労働党の新政権は最近になって、過去20年間には一顧だにしなかった改革を実施している。労災保険が再び国営化され、民間より手数料が20~30%低い国営のピープルズ・バンクが間もなく開設される予定である。高額所得者の減税が撤回され、労働組合の権利も強化された。クラーク首相が認めたように、ニュージーランドの市場原理主義の実験は失敗に終わった。

 米国ですら、これまでの民営化の流れが逆行し始めている。カリフォルニア州で電力供給の民営化に失敗し、価格の上昇や停電が起き、戦後初めて州全域での停電を経験した。カリフォルニアの政治家は、これまでには考えられなかった変更を検討している。5年前に民営化した電力配給システムそのものの管理を州に戻すことである。カリフォルニアでさえ、レーガンの民営化時代は過去のものになりつつあるということだ。

 確かに徴候は小さく、世界的な懸念というよりは再国有化に関心が集まっている。しかし過去20年間で主流になったイデオロギーに、わずかだが割れ目が生じた。新しい考え方もあることに気付き始めたのである。

 遠く離れたところでは、これまでには考えも及ばなかったことが実際検討されているが、ここイギリスでは、救済は民間部門にあるという確信を政治家たちが疑い始めた徴候はあるのだろうか。政府ではなく企業によって規則が作られているこの世界で、民間部門による静かな乗っ取りの危険性を認めようとする意思が生まれるだろうか。答えはノーである。

 次の選挙で提供される選択肢を見れば、政治的コンセンサスがいかに強いかを思い知らされる。すべての政党が「企業に解決策を依存する部分を増やし、国家の役割を減らせ」と主張しているからである。

 1968年、サッチャーが行った有名なスピーチがある。「コンセンサスが揺らいでいる。何事にも特定の見方をしない人々を満足させるための試みかもしれない。いかなる偉大な政党も、何を望んでいるのか強い信念がなければ存続し続けることはない」。しかし、サッチャーやレーガンが唱えた資本主義の形態を完全に支持することで、イギリスの政治はサッチャーが説明する「わな」そのものに陥ってしまった。その結果、有権者は、政治家に対してますます疎遠に、かつ懐疑的になり、投票以外には抗議運動しか手段がない状況に陥っている。政府が有権者の信頼を取り戻すまで、国民は民主主義を軽蔑し続けるだろう。政府が国民を改心させない限り、国民が政府を正すことはないであろう。