今回は、No. 468(「読者からのご意見と私の回答」)で紹介した読者から再度コメントが届きましたので、それにお答えする形で企業経営に関する私の考え方を紹介したいと思います。
読者:製品を作る社員に労働の場所を与えることができるのも、売上を提供する顧客にサービスを提供できるのも、またそのサービスをより便利に開発できるのも、「企業」という組織が存在しなければ不可能ではないのだろうか。では、その企業を生み出すには何が必要なのか。答えは簡単である。「人」「物」「金」「情報」の4つの柱である。しかし、この中で最大要素をどこに置くかといえば「金」。つまり企業を運営させるための資金が必要となる。
回答: 企業は生産のあらゆる必要条件を備えなければならない。読者が必要要素を「人」「物」「金」「情報」の4つと見なすのであれば、それでもよいが、ほとんどの経済学者は労働、土地、資本(金)の3つを生産の必須要素としている。この3つの中で、読者のいわれる最大要素が何かを考えるのであれば、それは他の要素よりも少ないか、あるいは入手困難なものであろう。現在、日本には貯蓄が豊富にあるため、資本が少なくなることはまずない。新聞報道でご存知の通り、日本には個人の金融資産が1,400兆円もあり、そのほとんどが金融機関に積み立てられている。こうした金融機関は融資先が見つからず困っているという話さえ耳にする。これだけ資金が過剰な日本で、他の生産要素よりも資本(金)を優先すべきだとする論理的、また実質的理由はまったくないと私は考える。
読者:日本は資本主義社会である。誰がどんな思想を元に「社会主義的」だの「福祉国家」だのとほざいたところで、根本的なシステムが「資本主義」である以上はこのシステムに背くことは愚の骨頂である。私が株主を重視する理由は2つある。まず1つは、企業体というものは「Going Concern」の概念において経営される。この概念を持ってすれば、特に制約的な決まりがない以上はその企業は「永遠に継続」しなければならない。株主をはじめとする投資家というものは、この概念が基本にあって初めて企業に「お金」を与えることを決めるものである。しかし、この概念は完全に保証されたものでないことは、今の日本企業の倒産状況を見る限り明白であろう。あくまで結果として利益がなければ企業は解体され、お金を与えた投資家の元には紙切れとなった「株券」が残るのみである。つまり、株主というものは常に「リスク」を背にしてお金を与えているものである。だが、多くの企業は公開企業は当然だが、最近走り出したようなベンチャー企業もエンジェルという存在を見つけて、直接資金を得ている場合が多い。第三者から資金を調達することは「=経営者が背負う借金を肩代わりしてくれている」のであり、資金を提供する第三者は、その経営者が立派な企業に育ててくれると信頼した上で提供しているのである。
回答: ここでいうConcernとは企業のことかと思うが、この読者は、投資家のための利益、あるいは株価を増加、または最大化せずとも、企業が存続できることを認識しているのだろうか。利益を出すということと、利益の最大化とは異なる。企業の存続のために損失を回避し利益を出すことと、株主や投資家のために利益や株価を最大化することはまったく別のことなのである。健康な人は自分の体を維持するために必要な分量しか食べないが、大食漢は節度というものを知らない。同様に、Going concernの本来の意味である「うまくいっている企業」、健全な企業は、その健全性や活力を維持するために必要な利益で満足するが、貪欲な企業はできるだけ多くの利益を上げようとする。私は、私が経営する会社においても、「赤字を出してはならないが、利益追求を目標にしてはならない」といつも主張している。最近の倒産はそのほとんどが次の2つの理由に起因していると私は考える。
(1) 日本では現在、国内や海外で販売しきれないほど多くのものが生産されている。そしてこの供給過剰が原因で過当競争が起こり、弱者が倒産に追い込まれている。
(2) 日本政府がとった金融ビッグバン政策により、日本の金融機関は国民の預金を日本企業に融資するのではなく、海外に自由に投資できるようになった。また日本政府は、金融機関の博打が招いた不良債権問題を公的資金で解決しようとした。政府がとったこの2つの政策を見た日本の金融機関は、低金利で国内企業に融資するのではなく、高金利を求めて海外で博打をするようになり、その結果、国内では貸し渋りが起こり、倒産が急増した。
確かにこの読者がいうように「経営者が立派な企業に育ててくれると信頼した上で資金を提供する第三者」もいるが、投資家が企業に投資するのは、その企業が健全で、かつ銀行預金以上の高金利を提供してくれると考えるからである。
読者:そういった株主のことを考えてみるがいい。もしそれでその企業が飛躍的に業績を伸ばし、社会的にも信頼され、多くの労働者に労働の場を与えられたとすれば、それは企業体に資金を与えた株主がいなければ実現しなかったものである。それならば、その利益はまず誰に還元するべきなのだろうか。まず株主に「お返し」を支払うべきではないだろうか。配当を与え、果ては市場で株式を公開してキャピタルゲインを与えることは何よりの「お返し」になるのではないだろうか。
回答: この意見にまったく賛成できない。日本経済が絶頂にあった高度成長期、日本企業は事業資金の70~80%を銀行から、また残りの20~30%を株主から調達していた。そして日本経済が衰退し始めたのは、企業が大半の資金を株主からの直接資本で賄おうとし始めてからである。高度成長期、日本政府は預金がインフレで目減りしない程度に預金金利を低く抑え、また融資金利も銀行が運転費を賄えるだけに抑えた。これによって日本企業は生産の3要素の中で、貪欲な投資家だけを優遇することなく、他の2つの要素(労働と土地)と同等に資本を扱うことができたのである。
読者:貴方が会社を設立するにあたってどういった資金調達を行ったのかはわからないが、例えば全部の資金を貴方が借金してリスクを背負ったのならば話は別だ。社員重視の経営をやってもよし、自分のワガママをとことん通してもかまわないだろう。たとえ倒産したところで、従業員は職を失うだけであり、残った借金を全部貴方が被るのであればかまわないが、日本企業の多くは株式市場で支えられているのが事実で現実である。貴方が尊敬しているとされる松下幸之助さんの残した企業も今は東証1部に公開しているのをお忘れなく。
回答: 我が社の場合は、読者の推測通り、私とパートナーが必要資金を自分たちのリスクで借金して調達した。だからといって、この読者がいうように「たとえ倒産したところで、従業員は職を失うだけ」などとは考えていない。私は企業の健全性を維持するだけの利益を出している限り、企業は倒産することはないと考えている。そしてそうした考え方に則った経営を行っているつもりである。企業を存続させ、雇用を維持するためには、利益を最大にする必要などないのである。
読者:第2に、今まで日本の社会において直接金融主体の社会が根付かなかった理由の背景には、銀行や関連企業同士で行う「株式の持合い」という悪慣が根付いていたことに起因する。「株主総会」は企業の意思決定においての最高の権限を握る機関であり、取締役会や執行委員会に対して徹底的な経営指導を行うべき立場となるはずが、株主総会を融資元の金融機関や関連企業同士で持ち合うことによって、経営陣は安定した基盤の上において経営に専念できる。
回答: この読者のコメントを読んで、私がまず感じたことは、これは米国の流行りの理論であり、それを読者はおうむ返しに書き記しているに過ぎないということである。直接金融主体の社会が根付かなかった理由を「株式の持ち合い」と結びつけているが、それを証明できるのだろうか。加えて、「株主総会」が企業の意思決定の最高権限を握る機関だと読者は主張するが、日米両国の有権者が政治に無関心であるのと同様に、両国のほとんどの企業の株主は、その企業の運営に対して受動的である。それは「株式の持ち合い」のせいでなく、企業の経営者が自己の利益のために株主をうまく操作しているからである。この読者は米国のプロパガンダをそのまま鵜呑みにして、日本企業の特徴であった「株式の持ち合い」を単純に批判しているが、「株式の持ち合い」のない米国企業の経営者の方が、日本の経営者よりも企業経営に対する発言権が強く、会社を私物化する傾向が強いことを、この読者はどう説明するのだろう。
読者:貴方は、書籍で「談合」を賞賛していたごとく、この環境が「日本によく合っている環境」などと答えたいのだろうが、我々からいわせていただければ「ふざけるな!」の一言で終わる。安定した環境というのは、経営者を甘やかし、好き勝手に意思決定を行わせ、さらには企業体そのものを経営者が私物化するという結果を生み出したのである。
日本最大手の量販店のひとつである「横浜松坂屋」というデパートがある。このデパートは18期連続赤字で無配当の状態が続いていたにもかかわらず、19年目にどうにか経常黒字を叩き出すまで、一貫して一人の社長が経営権を握り続けたという実態がここにある。黒字を出すまで、愚かな経営者は様々な株主の資産を食いつぶしながら好き勝手なことをやってきた。こうしてようやく黒字化に結びつけたとしたところで、それまでの18年間経営責任が一切問われなかったのである。
回答: 「横浜松坂屋」の経営者が、三越、拓銀、山一證券などの経営者と同様、自分が持つ権力を濫用したというこの読者の意見に私も賛成である。ただし、こうした経営者の職権濫用は、日本よりもむしろ米国の方が著しいという事実を、この読者は知らないのかもしれない。『ビジネス・ウィーク』誌や民間消費者団体の「ユナイテッド・フォー・フェアー・エコノミー」が行ったCEOの報酬に関する調査結果を見れば、株主、社員、顧客、取引業者を犠牲にして米国企業の経営者がいかに私服を肥やしているのか、明らかである。以下にロイター通信に取り上げられた「ユナイテッド・フォー・フェアー・エコノミー」の調査結果の概要を紹介するので是非お読みいただきたい。米国から送られてくる反日プロパガンダを九官鳥のように繰り返す前に、是非米国で実際に何が起こっているのかを確認していただきたい。
「2001年4月7日 ロイター通信」
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1990年代、CEOに最高額の報酬を支払った企業の株価は、同業者よりも、また平均株価よりも下回っていることを、ボストンの非営利団体「ユナイテッド・フォー・フェアー・エコノミー」が調査レポートで発表した。
1993~1999年に、CEOの報酬が全米トップだった企業5社のうち2社の株価は、スタンダード アンド プア社500種平均株価を15%下回っていた。
例えば、ウォルト・ディズニー社で16年間CEOを勤めるマイケル・アイズナーは1990年に2度、報酬額で全米トップにランクされ、1998年には5億7,600万ドル(約600億円)の報酬を手にした。しかし、1993年1月1日から2001年2月28日の間、S&P娯楽分野の株価平均は163%上昇、またS&P500は250%上昇したのに対し、ディズニーの株価は128%の上昇に止まった。
この調査レポートの著者スコット・クリンガーは、『ビジネス・ウィーク』誌が毎年発表するCEOの報酬トップ10は、空売りすべき銘柄リストと捉えるべきであり、CEOと一般社員の報酬格差が少ない企業の方が実際、株価が高く、株主への見返りが多いと語った。さらに投資家だけでなく、社員もCEOの報酬を懸念すべきであるとクリンガーは続けた。1994~1999年、このCEOの報酬トップ10にランクされた企業の少なくとも半数が、その発表から3年以内に大規模なレイオフを発表したという事実があるからである。
CEOは株主のために莫大な財産を生み出したのだから、巨額の報酬を受け取って当然だというが、CEOがその卓越した経営手腕に対して報酬を受けているという見方は神話に過ぎないとクリンガーは述べる。
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読者:こんな企業倫理を一切無視した経営が許されていたのも、日本企業が、また日本の市場や社会が「株主」の存在を重視しなかったがために起きていたという事実から、貴方は目をそらしているのではないだろうか。
回答: 「株主」の存在を重視しているとして読者が崇めている米国はどうだろう。株主、社員、顧客、取引業者を犠牲にして私利私欲の限りをつくすために、米国の経営者は日本の経営者よりもはるかに大規模かつ露骨に権力を濫用しているではないか。
読者:この「横浜松坂屋」の筆頭株主は親会社である「松坂屋」本社が過半数を占め、その他メーンバンクの「横浜銀行」や「東海銀行」といった融資元の金融機関が握り、安定株主比率は60%にも及ぶ。はっきりいってこの株主達はこの18年間に何をしただろうか。経営に関して鋭い感性がある株主達ならばとっくに社長の首を切って、新しい経営者に譲渡していただろう。にもかかわらず、赤字の垂れ流しを続け、多くの犠牲を生んでいる。
回答: 繰り返すが、日米全体で比べた場合は、経営者の権力濫用は、日本よりも米国の方が甚だしいのである。
読者:株主を蚊帳の外に置いた場合に生まれる犠牲は何も赤字経営だけではない。その影響で私がもっとも危惧しているのは、企業の組織体が「内部統制」を失うことにある。株主を経営に口出しさせない風潮に加え、日本の企業の組織体系の一つに監査役や公認会計士を含めた、いわゆる「監査人」(Auditor)が全く機能していないことがある。これにより、経営者を客観的に「監視」する立場の者が全く存在しないのである。これは企業の経営者や従業員が「不正行為」を行うにはもってこいの環境である。
回答: 経営者の職権濫用について、日本よりも米国の方が表面的な(実質的な)統制や監視があるとすれば、それは、日本よりも米国の方が権力の濫用が激しいからではないだろうか。さらにいえば、米国の方が日本よりも道徳レベルが低いからこそ、非道徳的行為を取り締まるための法的手段が多く存在するのだと私は考えている。もちろん日本も、米国人、あるいは米国の操り人形や米国の盲目的崇拝者によって統治され始めた1945年以降、伝統的な考え、例えば、儒教、仏教、神道、武士道などが次々に教えられなくなり、日本人の道徳レベルも、それまでの道徳教育を受けた人々が指導的立場から退き始めるとともに低下したのも事実である。今、日本に残された選択肢は、日本が捨て去った道徳教育を復活させるか、あるいは非道徳的行為を取り締まる方法を探すかのどちらかであろう。しかし、法的措置があれだけ多く存在する米国で、非道徳的行為が跡を絶たないことを見れば、つい最近まで非道徳的行為の多くを妨げてきた日本の伝統的道徳教育を復活させるべきだと私は考える。
読者:日本は一刻も早くこの状況から脱出しなければならない。それにようやく気づき始めている企業もあるが、株の持ち合い解消が思うように進んでいない状況を見る限り、日本企業の経営者の考えでは改革は難しいといわれる。現状を変えるにはやはり海外投資家にドンドン圧力をかけてもらいたいものである。経営者がいくら抗戦しようと思っても無駄だと思ったほうがいい。このまま持ち合いを続けたところで、株式市場の低迷に加え、連結においての資産の会計評価が時価になることを考えれば金融機関は株を売り払うしかないだろう。
貴方はよくコラムで「経営者は社会に役立つサービスを生み出し、雇用を生み出すこと」が素晴らしいと思っているとのことだが、雇用を生むためには「投資家は犠牲になれ!」とでもいうのか。社会に信用されるためなら「不正行為や粉飾決算もかまわない!」とでもいうのか。勘違いも甚だしい。企業は株主のものである。投資家に利益を与えられない経営者が何が雇用を生み出せだ。負け組みは市場からさっさと撤退するのがゲームのルールだ。
回答: 私は、株主よりも消費者や労働者の方が重要だと考えている。その理由は:
(1) どのような社会でも、その構成員は皆、消費者である。
(2) 社会のほぼすべての構成員は、その生活や幸福のために必要な所得のほとんどを労働によって得ている。
(3) 社会の構成員の多くは、その人の暮らす社会の水準において普通の生活をするために、就労所得のすべてを費やさなければならず、貯蓄をする余裕はない。
(4) 貯蓄ができる余裕のある人々のほとんどは、住宅や自動車の購入、結婚費用、教育費、老後の生活といった、将来の目的のために貯蓄を行っている。したがって、その貯蓄を株やその他の博打に投じることで危険に晒すことは避けたいと思っており、最も安全な貯蓄先を選ぶのは当然である。
(5) 将来への備えを確保した上で、さらに株やその他リスクを伴う対象に投資を行う余裕のある人は、ほんの一握りしかいない。
私は、上記の最後のグループに入る少数の富裕者を社会は優遇すべきではないと考える。したがって、読者の推測通り、もしどちらかが犠牲にならなければならないのであれば、もちろん私は「雇用のために投資家を犠牲にすべきだ」と答えるだろう。なぜならこの社会で暮らすほとんどの国民が、就労所得で生活しているからだ。一方の投資家は、有り余る所得を投資活動から得ている。しかし、私は「社会に信用されるためなら不正行為や粉飾決算もかまわない」などといったことは一度もない。
株主は、企業の株を所有しているかもしれないが、いかなる企業も社会から認可を受けなければ事業活動を行うことはできない。株主だけを優遇し、社会の多くの人々を犠牲にするようなやり方で事業を行う企業の存在を、社会は許すべきではない。株主は企業の株を所有しているかもしれないが、しかしその企業は社会が提供する交通、通信、教育、その他の経済、社会、政治的な基盤から多大なる恩恵を受けている。これらの社会基盤を利用して、大多数の人々を犠牲に、ごく一部の株主を富ませるような企業の存在を許すのは、あまりにもばかげていると私は思う。
「投資家に利益を与えられない経営者が何が雇用を生み出せだ。負け組は市場からさっさと撤退するのがゲームのルールだ」という結びについてコメントさせてもらえば、私は最良の企業とは、国民の幸福に貢献し、自社の存続のために必要な利益のみを確保し、すでに十分裕福な株主をさらに富ませることのない企業であると信じている。読者のいう「負け組」とは、金持ちの株主を他の国民よりも優遇しない、すなわち株主に多額の配当を与えられない企業のことを指すようだが、株主を優遇することは、社会にとって搾取的行為だと思っている。
最後に、「負け組は市場からさっさと撤退するのがゲームのルールだ」という読者の言葉だが、企業経営も経済も、国民の生活や幸福のためのものであり、“ゲーム”とはほど遠いものであるということを付け加えておきたい。