No.482 米国企業とその価値基準による、またそのための政府

今回は、米国政府が、「人民による、人民のための人民統治」というリンカーンの言葉に代表される米国本来の価値観を捨て、企業の利益を代表するようになったとする、パリ在住のコラムニスト、ウィリアム・パフの記事をお送りします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙
2001年1月18日
ウィリアム・パフ

 第43代米国大統領ジョージ・W・ブッシュの就任式は、米国政府の本質の基本的な変化を確認するものであった。政府は、米国社会の一部でしかない企業の道具となったのである。私ではなく、すでに誰かが名づけたように「アメリカ株式会社」になったのである。

 この変貌は、米国有権者の目の前で、総体的な合意のもとに行われた。懸念を表明する少数派もいた。ごく少数だが、心配そうにこんなはずではなかったと異議を申し立てた。しかし大多数は満足げにそれを見守った。

 ある者は、政府が企業権益に乗っ取られるのは一般的であり、かつ周期的なことであり、19世紀の人民主義運動、20世紀の進歩主義者およびニューディールといった歴史からわかるように、2004年か2008年にその反動で「進歩主義」または自由主義の改革がくるだろうと主張する。一般投票の得票数ではゴアが勝ったのだから、選挙人団の投票でもゴアが選ばれるべきだったというのが多数の意見である。

 しかし、ゴアもまた企業が推す候補者だった。両候補とも企業を代表するというのは今までになかったことである。人種、同性愛者、フェミニズム、中絶などの文化的問題で、ゴア政権はブッシュ政権と違った扱いをしたかもしれない。労働者に対してはブッシュよりも好意的だったかもしれないが、企業を敵に回すほどではなかっただろう。

 ブッシュよりもゴアのほうがグローバル化、自由貿易に熱心だったろう。外交政策も経済政策も企業権益を満たすものだったろう。なぜならそうした企業がクリントン政権を支持し、支持することによって利益を得、またそれがゴアの大統領選での主な資金源だったからである。

 パット・ブキャナンとラルフ・ネーダーは、ブッシュとゴアはトウィードルダムとトウィードルディー(伝承童謡やルイス・キャロル『鏡の国のアリス』に登場するうりふたつの男たち)だといった。そのブキャナンとネーダーがどうなったかはいうまでもない。今日では、企業の本流に受け入れられない候補者が選挙で選ばれることはないのである。企業献金が国家の政策も外交政策も決める。クリントン政権時代、企業は政府にコロンビアの紛争に介入させ、ヘリコプターや武器を売り込んだ。

 ブッシュ政権がのめりこんでいる国家ミサイル防衛システム(NMD)は、航空宇宙産業のプログラムであって国家安全保障プログラムではない。多数の外交政策専門家や独立系システムアナリストは、これは大きく誇張された脅威に対する技術的に誤った対応と見ている。

 ブッシュの支持者はすでに新たな脅威を煽っており、その脅威を防ぐには、ならず者国家からのミサイルを遮蔽するNMDの構築と同じくらいの費用がかかる。ブッシュが選んだ防衛長官のドナルド・H・ラムズフェルド率いる議会が任命した委員会は、米国の衛星に及ぼす敵国からの脅威に対し対抗策を求めている。それは「宇宙で操作でき、軌道上の資産を防衛し、空軍、陸軍、海軍の増強につながる兵器システムを含む、宇宙向け政策と作戦概念および能力だ」としている。これによって米国の産業界は、儲けの高い注文を自国内の企業で奪い合うことになる。なぜなら開発される対抗策の対象となる脅威は、他のハイテク国はどこも興味を示さない実態のないものだからである。

 過去において兵器の開発は、軍が脅威をどのように定義するかで決まる傾向にあった。今日それは、最新兵器を売り込むために兵器業界が新しい脅威を宣伝することで決まる傾向にある。クリントン政権の時、貿易政策を推進したのは企業ロビイストだった。ヨーロッパとのバナナ戦争では、米国で生産、出荷されるバナナはまったく関係なかった。真相を知る国民は、まったく何も変わっていないではないかというに違いない。1920年代から、米国海兵隊はユナイテッド・フルーツ・カンパニーの中央アメリカにおける利権を守ってきたからである。クーリッジ大統領は米国民にとって一番重要なのはビジネスだと冷静に見抜いていたが、今も議論の余地はない。

 今日の状況で目新しいものは、米国のシステムにおいて表面上、取り返しのつかない変化が起きていることである。量的な変化は、ある時点で質的な変化に変わる。その変化が始まったのはおそらく1976年、米国最高裁が、選挙候補者を支援するのに使う費用は、憲法で保障されている言論の自由の一つだという判決を下したときであろう。今、財界は国政選挙の勝者だけでなく、大部分の敗者へも資金援助をしている。

 これは米国人の生活が、企業と、物質的なものを増やそうとする彼らの価値観によって、ますます強く支配されるようになっていることの1つの表れであり、さらにそれを煽っているのが、米国産業界の中で最も重要な娯楽産業が提供する馬鹿騒ぎや論客で、もはや選挙は見世物であり、戦争さえも娯楽になっている。

 これは、米国にとっておかしな結果といえる。米国で最も根強い文化的源泉はカルビン派の反体制の信仰で、その仲間はひけらかしや贅沢を嫌い、厳格な戒律に従い、罪深い人間は神の恵みによってのみ救われるというものである。この最も強い影響を受けたカトリックの移民はアイルランド人で、厳格主義のように、17世紀の予定説信奉者の極端な形であるヤンセン主義を強く受け継いでいた。

 米国はこの原点からなんとかけ離れてしまったことだろう。大統領就任式のような場において政治家が褒め称える価値観からどれほど遠ざかってしまったのか、それが何か、米国にはもはやわからない。