No.494 構造改革より週休3日に(後編)

今週も先週に引き続き、月刊誌「Voice」(PHP研究所)11月号に掲載された私の記事をお送りします。これは同誌から、小泉政権が進めている構造改革についての意見を求められ、それをまとめたものですが、私の提案が、現在政府がとろうとしている方策はもちろん、多くのエコノミストや財界トップの考えとも、完全に異なるものであることは十分承知しています。それらをかんがみたうえで、あえて、私はこのような提案をしています。現在のシステムに手を加えることは、そのシステムから多くの利益を得ている権力者たちからの反対を受けることは目に見えているからです。しかし、国民の幸福を基準にせずに、経済のために国の政策をとり続けるのであれば、日本という国の将来が暗澹たるものとなることが明らかなことも事実なのです。皆様からのご意見をお待ちしております。

【週休3日にすれば社会消費が増える】

 私は、日本の問題の本質をこう考えている。まず、1960年代と1990年代の日本人の一人当たりの生産性を比較すると16倍になっている。この背景には機械化やコンピュータ化がある。たとえば駅の改札は自動改札になり、新幹線は基本的にコンピュータが運転し、銀行もほとんどATM機になるなど、どの分野でも従来は人がやっていた業務が自動化されている。そうした機械もまた機械がつくっている。機械が仕事をすることによって生産能力は大幅に伸び、人口一人当たりに換算した生産性も向上する。

 経済は需要と供給のバランスが取れていればうまくいくが、供給が需要を上回ればデフレになる。つまり、日本人の生産性が30年前の16倍になったのなら、消費も16倍になっていれば経済はうまくいく。ところが現実には、生産性と同じように消費は伸びていない。30年前の16倍もの数のメガネをかけ、16倍も靴を履き、16倍もの料理を食べ、16倍もお酒を飲むということはどう考えてもありえない。日本の失業率は5%台だが、実質的にはいまの労働人口の半分を切り捨てなければ消費に見合う生産性にはならないのではないか。つまり、技術が発展するほど、経済はどんどん悪くなっていくのである。

 要するに、経済条件が過去とは変わっているということだ。たとえば日本は百年前、農業中心の経済だったが、人口が増えてくると農業だけで国民をたべさせるのは難しくなった。そこで農業中心から製造業中心に産業構造を切り替えることによって、1億2,500万人が食べられるようになった。

 製造業も機械の性能が低い時代は、生産性を上げるために多くの労働力を必要とした。だから、多数の労働者を食べさせることができた。しかし、機械の性能が高くなればなるほど労働者は不要になっていく。いま機械の性能はきわめて高くなり、ほとんどのモノを機械がつくっている。だから製造業には人間はほとんど必要なくなっているのである。ところが、人が必要だったときにできたシステムだけは残っている。つまり、経済条件がすぐれた機械化、自動化の進歩に合っていないということだ。

 だからモノが余る。モノが余って売れなくなると人は要らないといって従業員をクビにする。賃金がもらえなくなれば消費ができないから景気はさらに落ち込む――この悪循環を断つためには、いまの状況に合う条件をつくる以外にはない。しかし、いま政府が進めようとしている構造改革とセーフティネットの提供では何も改善しない。大量出血する人に絆創膏を貼るようなものだからである。

 具体的にいえば、国民が現在のように働かなくても生活費が得られるシステムをつくるしかない。こういうとすぐ「社会主義だ」と嫌われる。特に金持ちは嫌がるに違いない。しかし、この30年間で生産性が16倍に伸びたにもかかわらず、一人当たりの賃金の伸びは9倍、一家庭当たりの可処分所得は8倍にしかなっていないのである。これではモノが余るのも当然であろう。この構造を直さなければ、消費は絶対に生産についていかない。

 問題を解消するいちばん簡単な方法は、賃金を減らさずに週休三日制にすることである。さらに、他の一日は自宅で働いてもらう。会社に来るのは週3日、できれば火、水、木曜日にする。そうすれば、日本全国どこに住んでいても、火曜日と水曜日だけ会社の近くのホテルに泊まり、木曜日の夜には家に帰ることができる。これなら会社から通える距離に住む必要はなく、地方の自然のなかで、しかも広い家に住むことができる。生活の質も向上するはずである。10年前に1時間かかった仕事がいまは半分の時間でできるのであれば、週休3日は十分可能であると思う。

 ただし、給料をもらうためには週休3日のうちの1日は学校に行くことを義務づけるべきである。学校に行かない場合には給料の5分の一は入ってこないようにすればいい。残念ながら、学校を卒業してからの人生が60年もあるのに、ほとんどの日本人はその間何も勉強しない。これからは年寄りになるまで働きながら休みの日に勉強することができる環境を整えるべきである。あるいは勉強以外にボランティアを義務づけてもいいし、他の方法も考えられるだろう。

 これらの提案は、けっして経済を成長させるのが目標ではない。目標は国民の幸福である。人生すべてを社会中心にすべきだというつもりはない。ただ日本の場合、社会のことをあまりにも考えない仕組みになっている。たとえば、日本の社会消費はGDPの9%であると述べたが、先進国と呼ばれている国では社会消費に20%費やしている。

 日本は社会のために消費する部分が少ないから、たとえば私の住む京都の街はパチンコ屋とコンビニと駐車場だらけになり、情緒ある街並みが消えつつある。それも、個人が自分のことばかり考えているからである。土地をもっている人は税金対策を考えると高層ビルを建てたほうがいい。景観を殺しても仕方がない。それではフィレンツェやローマのように美しい街並みを残すことは決してできない。こうした環境づくりは社会がやらなくてはならないことであり、その重要性を日本人はもっと考えるべきではないか。

 もちろん、個人の欲望も大事にしてしかるべきである。住居を持つなら広い家に住みたいと思うだろうし、生活費が保証されていたとしても、もっと働きたいと思うだろう。そういう人には、それを実現するチャンスを与えればよい。それで高い収入を得たら、高い税率を課せばよいのである。

 私は、給料の5割以上を税金で取られても高いとはまったく思わない。なぜならば、私の収入のうち私の努力によって得られたのは5割以下だからである。たとえば私はコンピュータソフトを売っているが、砂漠では商売はできない。いい企業がたくさんある日本にいるから売れるのである。私が採用する社員は、きちんと読み書きができて仕事をこなせる。これは私が教育したのではなく、国の教育制度のおかげである。新宿に行こうと思えば、道路も電車もある。治安の心配をしなくてもいい。

 これらの状況をつくったのは私ではない。私は恩恵を受けている立場である。ほとんどの生活、ほとんどの利益は社会からもらっているものから生まれている。いちばん儲かっている人からたくさん税金を取り、それを全体のレベルを向上させるために使う。それでも人よりも頑張りたい人はさらにもっと努力するだろう。それで国民全体が幸福になれるのではないか。

 かつて高度経済成長のとき日本の法人税は厳しかった。それを減らしていって、いまでは国家の税収の6割程度が法人税、残りは所得税になっている。その所得税も、累進性を減らそうとしている。あるいは、株式の譲渡益課税も減らすという。その一方で、国民が払う消費税を上げようとし、社会福祉をさらに減らそうとしている。当然、普通以下の人の生活は苦しくなる。これは、いまの経済条件に必要なシステムとは正反対である。

【GDPが伸びても国民は幸福になれない】

 そのうえ今度は、いまの経済に合ったシステムを作ろうとはせずに、インフレを作り出そうとしている。これは、国や地方が無責任に蓄積した666兆円の借金を帳消しにするためである。借金を返済するいちばん簡単な方法は、1,400兆円ある日本人の個人金融資産の半分を充てることだが、さすがに直接的にはできない。ただ、日本人の個人金融資産の価値を半分にしてしまえば、同じ効果が得られる。それがインフレを創出するということだ。

 日本はGDPの成長率が低くなっており、他方、たとえばアメリカはGDPの伸び率だけを見れば日本よりも伸びている。しかしアメリカの伸び率が高いのは、アメリカが巧みな制度をつくったからである。

 アメリカでは政府があふれているモノを買って燃やしている。(燃やすというのは軍需産業を盛んにするために戦争を起こしているということだ。)アメリカは太平洋戦争以降、冷戦といいながら、朝鮮半島、ベトナム、ニカラグア、パナマ、ボスニアとずっと戦争を続けてきた。もはや戦争中毒といってよい。先日の米国同時多発テロ事件は、決してあってはならない悲惨な出来事であったが、このテロ事件もアメリカにとっては戦争の口実だとも考えられる。

 冷戦が終わって、かつて脅威だったソ連は脅威ではなくなった。そこでアメリカは、北朝鮮が敵だといって、ミサイル防衛システムが必要だと主張しはじめた。アメリカから見れば微々たる存在の朝鮮半島の小国に、どうしてTMDが必要なのか。それは結局、政府があふれたモノを燃やしたいからでしかない。

 これは社会主義の一つの姿である。アメリカは、資本主義の国だといいながら、実は社会主義の国なのである。しかもアメリカの社会主義は、社会全体のための社会主義ではなく、社会のごく一部の人のための社会主義になっている。金持ちのための社会主義をファシズムという。ヒットラーの社会主義と、いまのアメリカの社会主義はそっくりである。違いがあるとすれば、ヒットラーはユダヤ人を迫害したが、アメリカはユダヤ人を大事にしているところだろう。

 このようなことをしてまでGDPの伸び率を高めることが、果たして国民全体にとって幸福なのか。社会のなかで強い人間はごく一部しかいない。その一部の人はうまくすれば権力を握ることができる。もし、その人たちが儒教を信奉し、論語を愛する人であれば、手に入れた力を社会のために使うだろう。しかし、いまのアメリカや戦前のドイツ、日本は、一部の人たちが自分たちのためだけに社会を動かしている。

 問題は、その一部の人たちの倫理観である。国民全体のために社会を動かそうとするのか、自分たちのために社会を動かそうとするのか。そうした倫理観について、日本では昭和20年から教えていない。したがって、日本がどのような方向へ行くのかは容易に想像できる。いま政府が掲げる構造改革は日本の将来を暗くするだけである。

【許可を得て転載】