今回は米国がなぜ同時テロ攻撃を受けることになったのかについて、米国のコラムニスト、ジョー・ソブランのホームページからの記事をお送りします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
2001年9月25日
ジョー・ソブラン
政府がいくら努力をしても、時々真実が漏れることがある。イスラエルの前首相ベンジャミン・ネタニヤフは、9月11日の攻撃について、「イスラエルにとっては、いいことだった」と極めて何気なく発言してしまった。すぐさま、米国人が味わった恐怖を歓迎していると思われないよう、米国人に対する哀悼の意は表したものの、彼が最初に言ったことは当を得ている。
客観的に見て、その攻撃は米国にとってはひどいことだったが、イスラエルにとってはよいことだった。それは真珠湾攻撃が、米国にとって悪く、イギリスにとってよかったのと同じである。これを最初に認めたのはウインストン・チャーチルだった。日本が真珠湾を攻撃したことによって、米国はイギリスの味方として第二次世界大戦に参戦することを決意した。小国は、常に、大国の軍事援助を歓迎する。これは自然なことである。
チャーチルは非公式には自国を「大英帝国」と呼んでいたが、米国人が帝国を嫌っていることを知って、公けには、イギリスと米国は「偉大なる民主主義国家」であり「英語圏の人々」だとチャーチルは言っていた。今日、イスラエル人は、自分たちの間ではユダヤ人国家と言っているが、その大部分がキリスト教徒である米国人と話すときは、両国を「民主主義国家」だと言う。
国家(または民族国家)の利害は、それぞれ異なる。たとえ同盟国であっても利害がまったく同じであることはめったにない。ある者にとっては悪いことでも、他方に利益をもたらすかもしれない。ただし、そのように口にしてしまうことは通常、不穏当である。プロパガンダの必要性から、彼らは表向きには一致団結していることを見せ、同じ理想のために立ち上がったと主張し、あたかも双子のように、互いの痛みを感じていると公言する。
今、米国は、これまでになくイスラエルと深く結びついている。その同盟関係は、一瞬のうちに、費用負担の嵩む関係から、悲惨な結果をもたらす関係となった。それが攻撃の動機づけとなったことは、疑う余地はない。もし米国が率先して中東から撤退していたら、米国に対するアラブとイスラム諸国の憎しみは弱まり、攻撃は無かったかもしれない。しかし今米国が撤退すれば、シオニストによるテロリズムによってパレスチナからイギリスが撤退したのと同じように、敗北した帝国が退却するかのように見える。そして米国大統領は弱気なところを見せてはいられないのである。
テロの攻撃の後、ブッシュ政権は米国土安全保障局(オフィス・オブ・ホームランド・セキュリティ)を作っている。しかしちょっと待って欲しい。国土の安全保障とは、国防省の目的そのものではないだろうか。
しかし、それは違うのだ。米国政府が3千億ドルもの費用を毎年使っているのは、明らかに、厳密に言うと、米国の国防とは、一般的な防衛ではないのである。だからこそ、国土をテロから守るために、まったく新しい機関を作る必要があった。
国防総省は、厳密には攻撃省であり、攻撃部隊が地球のあらゆるところに行って憎しみを誘発し、その憎しみから米国を守ることはできなくなっている。つまり、国防とまったく正反対のことを行っている。そしてそれが米国を不安定にし、したがって、「安全保障」のための別の機関が必要となったのである。
その昔、まだ米国があいまいな言い方をしなかった頃、国防総省はあからさまに「戦争省」と呼ばれていた。率直さと明瞭さのためにも、いまこそ古い名称に戻る時かもしれない。しかし、我々が何と呼ぼうとも、もはや時代遅れである。すべての国がそうであるように、米国も資力を持つ民間人によって国防総省が操られてきた。そしてこの場合、それは並みはずれて不快な者たちによって行われていたのである。
米国人の誰もが国旗を手に持ち振っている姿は心温まる。しかしそれを見るとき、憲法が小さく丸められ、共和国が帝国となり、政治家たちがイスラエル贔屓のロビイに迎合しているときに、これら愛国心に満ちた人々がどこに行っていたのかと、不思議に思わなければいけない。彼らを目覚めさせるために、米国はひどく荒々しい攻撃を受けるはめになった。しかし彼らは、自分たちがぼんやりしている間になぜこのような状況が起きたのかをいまだ不思議に思っていないようである。
我々の自由は攻撃を受けている、と言われている。そして、現に受けている。しかし、オサマ・ビンラディンがわれわれの自由を奪うことはできない。それができるのはわれわれの政府だけ、例えば、FBIとCIAに新しい権力を与えることによって、あるいは、航空会社や旅行者、銀行や金融機関、個人の通信に対して新しい規制を課すことによって、われわれの自由を奪うことができるのである。そのうえさらに国民すべてに身分証明書の携帯を強要するかもしれない。
その国のすべての国民を犯罪容疑者として政府が取り扱うようになるかもしれないと考えると、どんなテロリストよりも恐ろしい。しかしさらに恐ろしいのは、「自由」の代償として、一般市民が、その自由を引き渡すことを受け入れられることである。