前回に引き続き、オーストラリア国立大学の教師、マイケル・マッキンレーが2001年2月23日に、イリノイ州シカゴで開かれた国際論協会第42回年次大会で発表した論文の抄訳をお送りします。この論文は、新しい貧富の差の特質およびその規模について触れるとともに、グローバル化が理論も実践も、大きな戦争に匹敵する破壊力を持つと述べています。なお、英文で全文をお読みになりたい方は、下記のURLをご参照下さい。
http://www.isanet.org/archive/McKinley_Triage.html (原文タイトル:”Triage: A Survey of the New Inequality as Combat Zone” 選択:戦闘地域としての新たな格差の調査) 皆様からのご意見をお待ちしております。
グローバル化という名の戦争(2)
マイケル・マッキンレー
グローバル化の犠牲者
グローバル化という名の、この戦争の現象を理解する手がかりは、経済のグローバル化の体制にある国家、地域、北側(先進諸国)と南側(発展途上国)の中およびその間の富の分配にあり、これは総称として(あるいは婉曲表現として)「調整」プログラムと呼ばれている。南北格差を調べてみると、その差は急増している。
1970年代、世界人口における最も裕福な上位20%の人々は、最も貧しい20%の人々の30倍の富を手にしていた。しかし1992年、この格差は150倍にも広がっている。裕福な最上位20%の人々が世界の総所得の80%以上を手にする一方で、最下位20%の取り分はわずか1.4%である。
世界において、358人の億万長者が全人口の最下位から45%にあたる人々の富の合計に等しい7,600億ドルの正味資産を手にしている。
世界銀行、IMF、WTOなどが推し進める「構造調整プログラム」やその他の政策は、GDP成長率や対外投資の増加にはつながらず、輸出量をわずかに増やしたに過ぎない。しかしそれらがもたらしたのは、発展途上国の経済を急速に世界市場に開放し、賃金を減少させ、労働者の保護を弱め、貧困の度合いを強めたことであった。
この傾向は変わりそうもない。構造的にも経済的にも、これはまさに厳格かつ正統な、自由貿易、基盤構造に基づく輸出中心の発展という考え方がもたらした結果である。したがってこの状況を理解するためには、従来とは逆の見方をする必要がある。つまり構造調整は開発戦略ではなく、企業戦略だということだ。さらに世界銀行は、元理事の一人が「開発には犠牲がつきものだ」というように、まったく非を認めていない。
経済衰退の影響を受けた89ヵ国のうち19ヵ国は、すべてアフリカ、カリブ海、中南米の国で、国民一人当たりの収入は1960年のレベルまで下落した。
WTO主導の貿易体制による所得増加分の70%は先進国にもたらされ、一方で、例えばアフリカなどは2002年には実際に所得が26億ドル減少するであろう。
地球に住む60億人の5人に1人が貧困生活をおくり、その数は増え続けている。同時に、彼らと、最も裕福な上位20%の人々の格差はさらに広がりつつある(1960年?1991年に、その所得格差は倍増した)。しかし一方で、1996年、発展途上国の全体の成長率は5%を記録し、世界全体の国の富は1945年以降7倍に増えているのである。
この格差は破滅的である。世界において、死、病気、苦しみの唯一最大の原因は貧困にある。世界の死因の40%は、伝染病(その99%は第三世界で起きている)と、豊かな国々ではほとんど見られなくなった、妊娠時、周産時、新生児期の問題である。
世界の8億3,000万人の人々は飢餓状態にある。これには2億人の子供たちが含まれる。アフリカでは33%、アジアでは17%、ラテンアメリカとカリブ海では11%の人々が、元気で健康的な生活をおくる十分な栄養をとるだけの食料が不足している。
アフリカの人口は世界の13%、約7億2,000万人だが、GDPは世界のわずか1.2%でさらに減少傾向にある。アフリカの人々の所得を1970年代のレベルに戻すだけでも40年はかかるとされる。国連が173ヵ国を対象に行った識字率、教育、人口増加率、国民一人当たりのGDP、平均余命などの調査では、下位24ヵ国のうち22ヵ国がアフリカであった。
ラテンアメリカでは、「コルテス以降、最悪の略奪」による破壊が進んでいる。1990年の国民一人当たりの実質所得は1980年と変わらず、貧困の数は1億3,000万人から1億8,000万人に増加し、不完全就業や失業の蔓延より、所得格差がますます広がった。このような状況で見られるのは貧困だけでなく、国内における紛争や難民、経済難民の増加あるいは再出現、飢餓と栄養不足の増加、近代医学で一度はなくなったとされた結核やコレラなどの復活、さらにはホロコーストに匹敵する死である。
最も深刻なのは、死者の増加である。グローバル化の影響による途上国における死者の数は年間1,300万から1,800万人にのぼり、その大部分は子供たちである。1982年以降、毎年少なくとも600万人の5歳以下の子供たちが死亡している。
先進国の北側でも明らかに南側の状況が出始めている。もっとも顕著なのが米国である。より平等な所得と富の分配に向かった過去1世紀の傾向は逆転し、ここ10年で大部分の米国人の世帯所得は横ばい、または実質賃金が減少し、貧困が増加し始めた。しかし同時に裕福な最上位1%の米国人家庭の所得は115%増え、米国人の億万長者の数も急増した(1975年は642人だったのが、1991年には60,667人に増加)。マンハッタン(ニューヨーク州)の富裕者と貧困者の所得格差はグアテマラのそれを上回る。イギリスと米国の貧富の差はナイジェリアとブラジルのそれに相当する。1990年にフォーチュン200社のCEOは平均的な生産労働者(さまざまな生産的事業と結びついた労働者)の150倍の給与を手にした。これは16年前の4倍以上である。これに対して1995年の小売販売員の税引き後の平均給与は米国大恐慌時代の水準まで下落した。またフルタイムで働きながら貧困レベルの賃金(3人家族で11,500ドル、4人家族で14,800ドル)以下の収入しかない米国人労働者の数は同時期、50%増加し、貧困レベルの賃金の半分しか得ていない人の数は2倍になった。なお米国で設定されている最低賃金(時給4.25ドル)では、貧困レベルの所得を週に25ドル上回るに過ぎない。この所得では経済的に自立して生活必需品を買うために必要な金額をかなり下回る。
世界的に見て、最貧困層の70%は女性であり、また、途上国では2億5,000万人の5歳から14歳の児童たちが働いている(1億2,000万人がフルタイム、1億3,000万人がパートタイム)。この状況は世界資本に起因しているというだけではなく、アジアのいくつかの例に明らかなように、世界資本はむしろこういう状況を必要としている。
1992年、インドネシアの女性の初任給は1日1.35ドルだった。それによってナイキはインドネシアでスポーツシューズを5.60ドルで製造し、それを米国では45ドル?80ドルで販売することができた。ナイキの人件費総額は、バスケットボールのスーパースター、マイケル・ジョーダンとの宣伝契約費2,000万ドルにも満たない。インドネシアには多国籍企業だけでなく、地元企業でも最低賃金で働く女性がいるが、その88%が栄養失調だという。
マレーシアでは電子産業が8万5,000人を雇用し、半導体の世界最大の輸出国となっている。しかし、そこには外資の投資を妨げるという理由から、最低賃金に関する法律や労働組合がなく、非熟練労働者は「市場が決める」最低賃金、時給45セントで働いている。その結果同国は、テキサス・インスツルメントやインテル、ナショナル・セミコンダクターといった多国籍企業の受入国となっている。
フィリピンは女性を基本的に重要な輸出商品と考えており、海外労働市場に出稼ぎに出ている女性の中ではフィリピン女性が最も多い。彼女たちは主にメイドか娯楽産業で働き、それは出稼ぎフィリピン人の2番目に多い働き口となっている。彼女らは年間60億ドルを本国に送金し、これはフィリピンの350億ドルの対外債務の利払いをカバーしてなお余る額である。フィリピン政府は彼女たちを「フィリピン経済の英雄」と賞賛する。
女性の貧困は、経済の規制緩和と、人間やその労働の商品化の当然の帰結である。世界的に女性の賃金の方が安いために、女性が労働市場に参入すると一般的な賃金は確実に低下する。1980年代後半の韓国の製造業における女性の賃金は男性の半分であった。
同じことが貧困の低年齢化にもいえる。世界の2億5,000万人の児童労働の61%は、アジアにおけるものであり、これら児童は、農薬、除草薬、化学肥料、重い荷物、極度な室温、爆発物、放射線物質、産業機械、爆音、暗所での作業、ベンゼン、アスベスト、一酸化炭素、飛び散るガラス、奴隷的作業といった最悪の労働環境の下にある。
その他アジア、南アジアでも状況は酷似しており、児童労働が産業政策として一般化していることを示している。バングラデシュでは300万人の児童が労働人口の12%を占め、うち100万人が衣料業界で働いている。ある工場では13歳未満の児童を300人雇用し、彼らは1日最長で20時間働き、工場の床で眠り、1ヵ月の賃金は7.5ドルである。パキスタンでは、5歳から15歳の児童の25%が敷物織り、レンガ作り、召使い、零細産業、農業で働いている。児童が多く働く敷物産業の労働体制は、アンフェタミン(中枢神経刺激剤)を投薬して労働者を働かせることで成り立っており、それは短期的には有効であっても長期的には死に至る。パキスタンの輸出用敷物産業で働く児童の約半数は栄養失調と病気のために12歳未満で死亡する。中国の経済特別区では、最も年少では10歳の少女が月10ドルで1日14時間働いている。ネパールの労働者の3分の2は15歳未満の児童である。インドネシア政府はより多くの資本を引き付ける奨励策として15歳未満の児童労働を禁じる法律を廃止した。わずか4年間に約300万人が工場に雇用された。
インドは「予備の人体器官の特売場」である。特に、男性より健康だとされる女性の肝臓、角膜、血液、皮膚、骨は、先進国では多くの人が順番待ちをしている。しかしインドにおいて、この人体器官の売買よりもひどいのが児童労働である。インドの児童労働は5,500万人にのぼり、その80%は農場で働いている。敷物作りなどの製造業では、6歳の子供も含む30万人の児童が、1日16時間、インドの主要輸出産業の稼ぎ手として働く。その他には、なめし、溶接、火薬、貴石磨き、マッチ製造、衣料品縫製など、すべてインド政府が児童には危険だとして禁じている仕事である。
表向きは豊かな米国でも、貧困層の40%は児童であり、先進国全体では17%となっている。これは米国で500万人のフルタイムの職を持つ人の家庭が貧困線以下の所得しかないという事実を反映している。
米国では人種が貧困の指標となる。白人は12%、ヒスパニック系は29%以上、アフリカ系アメリカ人は33%以上が貧困にある。
技術の犠牲者
強大なグローバル企業の下で、多くの人々が厳しい生活を強いられるのであれば、より一般的な原因、あるいはそこで使われている道具という意味で、それを説明する必要がある。固定観念としての企業のグローバル化は、現在のもうひとつの支配者である、「技術」と合わせて理解する必要がある。経済のグローバル化にばかり集中することは、この2つの相乗効果を見逃してしまう。
第二次大戦後に始まった第3次産業革命は、社会がその経済活動を営む方法に大きな影響を与えたばかりか、ロボットや高度なコンピュータやソフトウェアによって、いまや最後に残された人間の領域である精神分野まで侵略するにいたった。これはこれまで技術革新が利点と考えられていたことが逆転したことを示している。従来、技術は生産性の増加、単価の削減、より安価な製品の供給増加、購買力の刺激、より市場の拡大などを通して、より多くの仕事を作り出すと信じられていた。しかし、もはやそうではない。これまでは人間の媒体が必要とされたさまざまな管理的および生産的機能を機械が行えるようになった。したがって、米国で企業が年間200万の職を切り捨てているように、技術は雇用を創出するどころか、反対の結果をもたらしている。
民主的制度や価値観、慣行への打撃とその影響は、グローバル化と技術の適用を合わせたものによる、論理的な結論として理解しなければならない。どちらか1つでも記録的な困窮の原因となりうるが、この2つが合わさることによって社会的および政治的大惨事となる。このためにも、伝統的な地元生産から海外生産を奨励する世界的な労働賃金格差という面から見た、世界における雇用、失業および不完全就業の変化といったことを、グローバル化と技術の相互作用について見る必要がある。
OECD諸国の失業者は3,500万人、さらに1,500万人がパートタイムにあまんじるか職探しをあきらめている。この傾向は日本、北米で悪化しており、西ヨーロッパでは特に慢性化していて失業者の45%が1年以上職に就いていない。しかし、この数字は第三世界の失業または不完全就業者数の推定20億から26億人という数と比べると取るに足らない。これは世界の労働人口の30%にあたる。そして1995年から2010年までに、途上国の労働人口はさらに7億人以上増加するであろう。この数は1990年の先進国の全労働人口に匹敵する。
米国の失業には冷戦の終結が災いしたのは確かであり、1987年から1997年に約260万の職が失ったと考えられる。しかし、冷戦の終結は、より一般的な失業の説明はできず、例えば銀行業界は今後7年間に30%から40%の職がなくなると予測される。いずれにしても、「ホワイトカラー」のサービス分野の職の消失は、製造業で起きているような一般的な労働人口の減少の1つに過ぎない。この現象は、第二次大戦後の20年間に西欧が成し遂げた経済成長と雇用、経済成長と職の創出は相関するという通念に反する。1960年から1990年に米国製造業の生産量は増加したが、雇用は半分に減少した。製造業では1981年から1991年に180万の職がなくなった。1979年から1992年で生産性は35%上がり、労働人口は15%減少したのである。
ここ最近の様子を見れば、未来が推定できる。米国では労働人口の75%が「単純反復作業より多少複雑な作業」に従事している。これら9,000万人の労働者は機械に置き換えられる危険性がある。実際、利益の追求は彼らの絶滅を求めることにつながる。人間の作業をコンピュータ化された機械に置き換えることによって、会社の仕事は一般に40%から75%なくすことができるからである。これはほとんどの先進国にあてはまる。日本では今後30年以内に、自動化のおかげでまったく人間の作業を必要としない製造工場ができるだろうという。スイスの国際金属労働者連盟は、今後30年間以内に、現在の労働力のわずか2%で、世界全体の製造品の需要を満たすようになると予測している。
解雇された労働者、または低賃金労働者の再教育を考えたとき、では一体どのような再教育をすればよいかという問題に突き当たる。供給される職が減少しているという状況は、農業、製造、サービスとあらゆる分野で起きているからである。さらにほとんどの先進国、特に米国では、サービス分野が多くの雇用と付加価値活動を提供しているが、生産性の面では停滞しているため、サービス分野の雇用は低下し続ける生活水準の解決策とは考えられない。現実的にいって、たとえ再教育を受けたとしても、「ナレッジ分野」で必要とされるごく少数の「シンボリック・アナリスト」や、「リエンジニア」された会社で必要とされる、同じように幸運な労働者とならない限り、最初に職を奪われた時と同じ影響に悩まされ続ける。したがって労働者の80%以上は、たとえ再雇用されても元の職で得ていたより少なくとも20%低い賃金レベルとなるだろう。だがこれも楽観しすぎた推測かもしれない。レスター・サローによると、低賃金労働者を教育することは「古い治療方法」であり、もはや効果はなく、大学教育に投資したところで、下りエスカレータから降りられるわけではなく、ただ下降速度が遅くなるだけだという。
国内外の労働市場の構造や、労働者の熟練度よりも賃金を重要視する生産を行う企業への見返り、さらには「新しい不平等」を支持する政府の政策を考えると、教育で変化が起こるわけがない。実際、こうした要因があるからこそ、教育や再教育が解決策とはならず、神話となるのだ。米国を例にとると、もともと労働者の教育が足りないわけでも訓練がされていないわけでもない。労働組合、労働に関連する法律、最低賃金といったこれまで賃金を設定してきた制度や規則が徐々になくなることにより、また労働者が増え、より低賃金の仕事に労働者が殺到することよって、不利な立場に立たされるようになったのである。
クリントン政権は1993年前半だけで120万の雇用を創造したと自慢したが、このうち約60%の仕事がパートタイムと低賃金の仕事であり、こうした職に就いた人々が求めていた正社員で高給の職ではなかったことは言わなかった。これを如実に示すのが、時給15.65ドルを得ていた板金工が失業し、現在、彼とその妻は2人で4つの仕事を掛け持ちしているにもかかわらず元の給料の半分以下しか得られていないという事例である。彼らのように複数の職を掛け持ちする人が米国には700万人以上存在する。
短期、契約、パート社員といった臨時雇い労働者が、現在米国の労働者の4分の1を占めている。さらに、この割合は今後5年間で最低35%まで増加すると見られ、臨時雇いの増加率が雇用全体の10倍であった1982年から1990年の傾向は今後も続くと思われる。さらに、正社員に支払われる有効賃金の45%程度が福利厚生手当てであったために、これらの手当てを「節約できる」雇用形態に変更することが明らかに望まれている。公然な「ダウンサイジング」というかたちで、労働者を切り捨てることが株式市場の喝采を受けることは国際的に約束されている。1989年以降にダウンサイズを行った主要な米国企業の50%が利益を増加させた。AT&Tが社員4万人のレイオフ計画を発表した後、株価が上がったことは言うまでもない。
新技術による新しい産業で雇用が増加するという主張も吹き飛ばされた。よく引き合いに出されるロボットもバイオテクノロジーも、熟練であろうとなかろうと労働者はそれほど必要としない。ロボットがより高度になるにつれて、ロボット分野の解雇がすすみ、その作業が不便だったり、費用がかかったり、難しいところだけ人間の労働者が雇用される。バイオテクノロジーも同様に労働集約型ではなく、過去10年間に米国で創出されたのは97,000人の雇用だけであり、最も大きい米国企業でも3,000人未満の雇用となっている。
これまでの傾向が続くと、2100年には世界人口は85億人から110億人に増加するという予測がされる。これは新しい雇用以上に、より多くの労働者が第三世界に生まれることである。資本、製品、サービスのグローバル化がこれからも継続することを考えると、これによって第三世界または南側労働者の増加が、北側における賃金の下降をもたらす結果となる。その間にも、この下降は過去30年間にわたって続いた付帯的損傷をさらに悪化させ続けるのである。