No.508 IT社会でなすべきこと:企業として、個人として

No. 505~507でグローバル化を戦争と捉えるマイケル・マッキンレーの記事を紹介しましたが、ではその中にいる我々は企業として、個人として、どう対応すればよいのかについて小論にまとめしたので、是非お読み下さい。

IT社会でなすべきこと:企業として、個人として

 

この一年間、日本はより良い方向へ向かってきただろうか。もしその範囲が広すぎるとしたら、もっと身近な、会社やコミュニティという単位ではどうだろうか。列挙するまでもなく、企業倒産は一昨年より更に増え、新卒者の就職はますます厳しく、その父親にあたる層は企業リストラにおびえ、自殺者数は完全失業率に合わせて増加し98年には初めて3万人を超え、30?40代の男性の死因でガンを抜いて一位になったという。そして、国内総生産520兆円の日本が抱える借金は、国、自治体、政府系団体を合わせるとおよそ710兆円にも上り、それはさらに増えつつある。

昭和時代の末期から、日本という国は着実に衰退に向かってきた。その原因は、戦後の道徳教育の欠如、それによる日本的価値観の喪失といった内的変化だけでは説明がつかない。様々な人が色々な原因分析を行い、バブルの崩壊や教育制度、さらには豊かさなど数多く提示されたが、誰一人として納得のいく説明もまた改善策も提供していない。そこで私は、さまざまな統計からこの事象を分析した結果、一つの仮定に到達した。それは「我々は今、戦争をしかけられている」というものである。

戦時状態にあってそれがわからないなど、おかしいと思うかもしれない。しかし、その戦争で使われる武器がこれまで見たことも聞いたこともないものであれば、気づかなくても不思議はない。そういった例は歴史にたくさんある。ローマ軍の歩兵はゲルマンの異邦人の騎兵隊に敗れ、またローマ帝国そのものは騎兵隊をものともしない石の城壁を作った封建時代の将軍に倒された。しかし、その石の城壁も火薬には勝てず、火薬の到来が今日のような国家の出現につながった。第一次世界大戦では、有刺鉄線や機関銃の出現で騎兵隊が時代遅れになることを見越せなかった軍の指導者は、何百万人もの軍隊を無駄にした。次に海の支配権を得るのに軍艦が鍵になると思われたが、それも束の間、第二次世界大戦では戦闘機の出現でまた時代遅れになった。

これらの事例でまだ我々が今戦時中にあるという事実を認められないのであれば、第二次世界大戦の一世紀も前から、米国が日本を攻撃することを計画していたという「オレンジ計画」のことを考えてみて欲しい。様々な文献から今はそれが周知の事実になっている。しかし、実際に日本が米国と開戦したときに、それが100年も前から計画されていたことを、日本の指導者はまったく知らなかったのである。

戦争をしかけられているのに多くの人がそれに気づかないのは、侵略者自身も「戦争」という言葉は決して使わないからである。代わりに、彼らは「グローバリゼーション」、グローバル化という言葉を使うのである。そしてグローバル化という戦争の背景には、ITすなわち情報技術の進歩があることはいうまでもない。私はまずグローバル化が戦争であることを示し、それが我々にどのような影響を与えているのかに触れ、最後に、ITを利用する企業の社員として、また個人としてこれにどう対応すべきなのか、対処策を提案したい。

<グローバル化という戦争>

20世紀は戦争の世紀であり、その犠牲者は100年で1億人(年間100万人)にも達した。しかし、グローバル化、特に世界市場への統合化を狙ったIMFや世界銀行による「構造調整プログラム」の結果、1982年以来、その犠牲者の5倍に相当する年間500万人の人々が亡くなっている。債務が肥大化する途上国に対し、新たな融資の条件としてIMFや世界銀行は「構造調整プログラム」を債務国に課した。それは緊縮財政や競争市場経済整備のための規制撤廃などが中心で、財政赤字を改善するための財政支出削減策の結果、福祉、教育、医療費が削減され、途上国の飢餓はさらに増加した。このような経済世界の仕組みから、アフリカ、ラテンアメリカ、アジアの国々で飢餓や貧困が蔓延することとなった。

グローバル化という思想の背景にあるのは「貪欲は良いことだ」という考え方である。近年の市場原理主義を正当化する根拠として、「競争の結果、私的利益を求める個人は、あたかも『神の見えざる手』によって導かれるように、公共の利益を実現することになる」というアダム・スミスの言葉が引き合いに出されるが、アダム・スミスが経済学者であった以前に道徳哲学者であったことを見落としてはならない。スミスは理想的な世界で物事がどのように機能するかを理論化したのであって、実際の世界ではどのようになるかということを分析する科学的観察者ではなかった。誰もが経済に関する意思決定を行う十分な能力を持ち、決して賄賂など受け取らない正直者であるという前提に立っていた。ところが、アダム・スミスの考え方を信奉する者たちは、スミスの理想的な世界での理論を自分たちの都合の良いように現実主義に基づいて解釈し、スミスの理論を引き合いに出したのは、「金持ちや権力者が貪欲な目的を追求できるようまったく自由にすれば、世界は最もうまく機能する」と他の人々に信じ込ませてきたのである。

アダム・スミスの時代から200年たち、経済や企業の目的は利益を出すことであり、貪欲さを肯定することがはばかられなくなった現在、主従関係は逆転した。経済のために社会が運営され、私的利益の実現を阻む規制は撤廃された。利益を追求する企業のために、あらゆる国の市場は開放され、政治家やメディアを買収するだけ裕福な金持ちや権力者の税金は減税され、その分残りの国民の税金が増税された。また利益を上げるためには経費のかかる正社員ではなく臨時社員を雇うことが奨励されるようになった。

利益がビジネスの目標そのものになると、社会の均衡は崩れ、経済戦争が起こる。なぜなら、利益というのは常に相対的なものであって、絶対的な意味は持たないからである。例えば私の年収が1億円であっても、周りがすべて10億円なら貧しく、たとえ10万円であっても、周りの年収が1万円であれば金持ちになる。したがって常に周りの人との競争になり、それによって社会の調和は乱されることになる。

<金融海賊の存在>

これまでお金でお金を生み出すという考え方は、洋の東西を問わず社会を破壊するものと考えられ、高利貸しのような金融海賊は卑しい職業とされてきた。日本においても、昭和の時代には企業で働く人々が銀行に貯蓄をし、企業は規制のもとで経営された銀行から資金を調達するという、好ましい循環で社会が成り立っていたが、金融規制緩和によって企業が株式市場から資金を調達するようになると、企業にとって株価は顧客や従業員よりも大切な指標となった。しかし、株価を左右する株主が重要視することは、その企業の長期的な経営ではなく、短期間にいかに高い利益をもたらしてくれるかどうかである。現在、日本では銀行の貸し渋りによる企業倒産が多いが、これも銀行が日本国民の預けた預金を貸し出すのではなく、より見返りの多い株式市場に投入しているためである。その上、銀行が利益追求に走った、いわゆるバブル時代に積み上げた不良債権処理のために、公的資金と呼ばれる巨額な国民の税金が銀行に投入されているのは皮肉としかいいようがない。

生活の維持や向上よりも利益追求がビジネスの目標になると、人は当然、協調よりも競合するようになる。利益は相対的なものであるため、利益追求には終わりはない。したがって、金融の規制緩和によって、金融機関が最も見返りの高いところに自由に投資できるようになると、利益追求は加速化し、その分、国民生活の安定が犠牲になるのである。

<グローバル化を促進するIT>

企業が利益追求を目的とすることは、富を増やすために人々の生活を犠牲にすることを意味する。しかし戦争となると、それ以上に生命をも脅かす。人間よりも利益を優先するという考え方に基づいて、金融海賊にグローバル化という戦争を可能ならしめているのがIT、情報技術である。

産業革命以前の社会において、人々は生きていくために労働やモノ作りを行っていた。今のように技術は発達していなかったが、生活に必要なモノを必要なだけ生産するには十分な生産性はあり、人々の労働時間は今よりはるかに少なかった。生活のために賃金を得る目的で人々が働くようになったのは、産業革命以降のことである。人が生きていくために必要な土地や天然資源を、力を持った一握りの人々が私的に所有し、資本家と呼ばれる層が形成された。資本家が利益を上げるために生産性向上を目的として、工場などに労働力を集約したことにより、残りの大部分の人々が工場や会社で働くようになった。このような賃金制度ができたのは、わずかここ200年くらいのことである。こうして、生活に必要なモノを自分で作る代わりに、それらを買ったりサービスを受けるための代価を得るために働くという仕組みができあがった。ここで重要なのは、この「労働によって賃金を得る」という近代的制度が、生きていくために必要なモノやサービスへの要求を満たすために作られたのではなく、生産性を上げるというビジネスの目的で作られたということである。

この状況が、情報技術の進歩によって一変した。高度な機械が人間の作業者に取って代わったのである。しかし、ビジネスの目的がさらなる利益を生み出し続けることである限り、企業は機械の出現で不要になった労働者を解雇し、必要とされる労働者の数は、技術の進歩によってますます少なくなるという状況に陥った。また、高賃金の職から低賃金の職へ、正社員から手当てのない臨時雇いへという変化も見られる。つまり、企業が利益を上げるために必要とされ、政府や学者などを巻き込んで創り上げた「労働によって賃金を得るという制度」がもはや機能しなくなったのである。生産活動を行うことによって労働者に支払われていた賃金は、労働者にではなく、生産活動を行う機械の所有者である資本家の手に渡るようになった。また、技術の進歩によって生産活動はより賃金の安い発展途上国に移り、先進工業国での人手はますます不要になっている。

さらに、技術の発達により生産性が飛躍的に向上した今、人々の生活に必要なものを作るだけでは、資本家のあくなき利益追求を満足させることはできなくなった。そのため、先進国における生産の中心は今や、娯楽やファッションといった生活にはそれほど重要ではないものに移った。娯楽やファッションに生産が移ることは、大量生産から多品種少量生産への変化、また製品サイクルの短縮化を意味する。

<解決策はないのだろうか>

この状況に、なぜ人々は気づかないのだろう。なぜ政府は何もせず、戦争から国民を守ろうとしないのだろうか。その理由が富の集中化にある。過去2世紀における利益追求が奏効し、世界の富はごく少数の人々の手に集まった。この少数グループはメディアを統制し、またその資金力で、自分たちの不利益になることを国民のために行わないよう政府の大部分を管理している。最も多くの人間に影響力を及ぼす新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、学校教育に至るまで、富を持つ者の掌中にある。そうしてメディアは、実際に起きている事象について報道するのではなく、実際に起きている事象に人々が目を向けないように、娯楽、もしくは戦争の参謀本部が流したい情報だけを、人々に流し続けている。このような中、どうして人々が現実を把握することができるだろうか。

<ITを利用して働く者として>

私たちが今戦争状態にあるという私の分析を、どのように判断するかは貴方次第である。この状態をしかたないとするのも、または、戦争であるなら勝者の側に立ちたいと思うのも自由である。しかし、一つ言えることは、誰もがこの事態の中で生きていかなければならないということだ。IT時代に生きる者として、また個人として、私たちにできること、すべきことはあるのだろうか。

まず、情報技術の供給者、利用者は、企業、特にその資金を株式市場から調達している大企業がこれからも利益追求の手を休めないどころか、さらに加速するだろうということを認識しなければいけない。コスト削減が利益を上げる一番の近道であり、人件費がコストの最も多くを占めることから、これからも社員のリストラが行われ、正社員はパートや臨時社員に置き換えられるようになっていくだろう。職を削減するために生産性を上げ、また未熟練労働者でも作業が行えるよう、さらに高度な情報技術が必要とされるだろう。そのために情報技術への需要は増え続けるだろう。

次に、日本では国民生活に必要最低限の製品やサービスは行き渡っているために、利益を求める企業間の競争が激化することは間違いない。そのために値下げや製品の差別化のための営業、マーケティング機能の重要性が高まる。製品の値下げのためのさらなる製造コスト削減には情報技術が不可欠であり、また販売、マーケティング機能の向上のためには一般社員にも利用できる、様々な高度分析ツールが次々に必要になる。ここでも生産性向上と仕事の単純化を可能とするIT需要の増加が予測できる。

飽くなき利益追求を行う企業は、人々の生活にとって基本的な製品やサービスの提供だけでなく、ファッションや娯楽といった必須ではない製品やサービスを提供する市場へと移行していくであろう。変化の速さを求められるこれらの分野で必要とされる情報システムは、短期間に安く構築できなければならず、つまりここでも、高い技術力を持たない人の生産性を上げるための情報システムが要求されるのである。

しかし、この新しい戦争が、決して一方的に攻撃をし続けられるものではないということも認識しておかねばならない。もし富める少数の権力者が、数多くの貧しい弱者に戦争をしかけているのであれば、弱者は反撃を行うだろう。昨年9月11日の世界貿易センタービルへの攻撃が制圧者に対する弱者の抵抗を示す一例かもしれない。世界の富を少数の企業が独占するようになればなるほど、反撃される対象はより絞られるだろう。したがって、持てる者と持たざる者との戦争が激化するにつれて、持てる者は、その情報システムが格好の攻撃対象となることを避けるために、できる限り分散して保有し、それぞれのシステムを保護する必要性がますます高まってくるであろう。

<個人として>

「IT革命は本物か」という昨年のテーマから1年が経過し、今なら私の見解に同意してくださる人も少なくないのではないかと思っている。持てる者が持たざる者に仕掛けているこの戦争において、今、私は「革命」という言葉にふさわしいものをITに見出した。この戦争は見えない戦争であり、ほとんどの持たざる者はその認識すらない。繰り返すが、それは持てる者がメディアも政府もその統制下に置いているためである。

歴史を振り返ると、情報技術にいくつかの革命的事象がある。書くことによって、口承で伝えられていたことが後代へも残せるようになったこと。印刷技術の進歩によって大衆に印刷物が普及するようになったこと。そして、19世紀半ば以降は、電信技術の発達により情報が瞬時に世界を駆け巡るようになった。新聞、ラジオ、テレビ放送はニュースとともに娯楽を人々に供給しているため、娯楽とニュースの切り分けが難しい。またラジオ、テレビ、新聞、大衆向けの雑誌は、少数から多数に向けて発信される一方的なメディアであり、それを統制する少数の人間が、ニュースも情報も、プロパガンダも嘘も、娯楽も宣伝も、何もかも好きなように流すことが可能なのである。

広く放送、放映するという革命的な技術によって、富を握る少数の人々は娯楽で人々の心を麻痺させ、その後で流すべき情報を選択して流布させている。こうしてわずか数十年の間に、ハックスリーの「すばらしき新世界」ができあがった。

人々が広く情報を流すためのもう一つの「革命」を提供するもの、それはインターネットである。しかし、広く情報を流すツールの一つとしてそれを捉え、革命と呼んだために、インターネットビジネスへ投じられた巨額の投資のほとんどは失敗に終わった。私は、インターネットは情報を広く流す手段でも、娯楽でもなく、情報を選択して収集するための革命的な新しい技術であると考える。失敗したインターネットビジネスの多くは、インターネットを、情報を流すもう一つのツールとして利用し、少数が多数に影響を与えるためのパワフルな手段として広告やマーケティング、販売手段と位置づけた。

インターネットは、まったくその逆であるがゆえに、革命的なのだと私は見ている。つまり、情報を撒き散らすのではなく、情報を集めるための手段なのである。放送では、放送設備を持つ少数の人間が、多くの人が受け取る情報内容を選択統制した。インターネットは、各個人が全世界の情報の中から、自分のニーズにあったものだけを選択することができる。私はテレビも見ないし、ラジオも聞かないが、新聞を読むことで、一般の人々にどのようなプロパガンダが流されているのかを確認することができる。ニュースソースとしてはもっぱらインターネットを利用する。世界の主要なニュース(報道)組織はほとんどが無料でインターネット上に情報を提供しており、またコンピュサーブやヤフーにはキーワードを登録しておくと、その単語にヒットした記事を送るサービスもある。さらに、社会、経済、政治問題について私が信頼する記事を書いている記者のサイトに定期的にアクセスする。彼らのWebサイトから、私は数多くの知識や情報を無料で得ることができる。また、特定の情報を必要とするときは、インターネットの検索機能を使えば瞬時にそれらを手にすることが可能である。

インターネットは、放送革命による「すばらしい新世界」から抜け出すための、革命的なチャンスを“考える人々”にもたらしたのである。第三次世界大戦において、持たざる者を持てる者から守る唯一最善の武器をインターネットは提供していると私は思っている。