No.512 大失業時代

今回はジェレミー・リフキン著『大失業時代』(TBSブリタニカ刊、原題:The End of Work)からの抜粋を取り上げます(邦訳は現在、在庫切れのようです)。リフキンの著書は我々に次のことを教えてくれます。多くの企業は、労働者を機械に置き換えれば、より低コストでより多くのものを生産できるため、利益増につながると考えます。供給が需要を上回れば、需要そのものを作り出そうと試みさえします。しかし、消費者が消費をするためには所得が必要であり、ほとんどの消費者の所得は労働による就労所得であることから、企業が人件費削減のために機械化すればするほど、消費者から消費能力を奪うことになります。したがって、機械化がデフレをもたらし、それによって事業がうまくいかなくなるのです。機械化によって失われた所得に代わるものを消費者である国民に提供する方法を見つけない限り、デフレを解決することはできないでしょう。

大失業時代
ジェレミー・リフキン

 “消費”(コンサンプション)という言葉は、語源的には破壊や略奪、征服を意味する。そこには暴力のイメージがつきまとい、今世紀になるまでは否定的なニュアンスしか持っていなかった。1920年代になってもなお、当時のもっと致命的な病気、肺結核を指す言葉として用いられていた。だが今日では、平均的アメリカ人の消費量は第二次世界大戦終結時の2倍に達したという言い方をする。このように、消費という言葉の持つ意味が悪徳から美徳へと変化したことは、今世紀のきわめて重要な、それでいてほとんど顧られない現象のひとつである。

 大量消費の風潮は、自然発生的に起こったものでもなければ、人間の強欲な性の避けがたい副産物でもない。事実は全く正反対だ。20世紀初頭の経済学者たちは、勤労者の大半が基本的な必需品とわずかばかりの贅沢品を買えるだけの収入で満足し、もっと長く働いて追加収入を得るよりも余暇時間の増加を求めていることに気づいた。スタンリー・トレヴァーやジョン・ベイツ・クラークのような当時の経済学者によれば、収入が増えて生活が豊かになると労働報酬へのありがたみは薄れ、どんな形にせよ、とみに増大をあまり望まなくなるという。大衆が労働時間の延長よりも余暇の延長の方を好むのは、全米の工場や倉庫で自分たちの売れない商品がますます山積みされつつあった企業人にとっては命とりにもなりかねない悩みの種だった。

 省労働テクノロジーの導入と急激な生産の増加によって職場を追われる人々が増えるにつれて、企業側は、残された賃金生活者たちの気持ちをつかみ、当時の労使関係コンサルタント、エドワード・コードリックが命名した「消費という新たな経済的福音」の世界へ彼らを何とか引きずり込む新手の方策を必死で探し求めた。だが、人々の心の持ちようを倹約型から散財型へと変えるのは並大抵の苦労ではなかった。開拓者たちの気質を支配したプロテスタント的な勤労倫理は、そのままどっしりとアメリカに根付いていたのだ。倹約の気風はアメリカ人の行き方の礎石であり、古き北部州人の伝統のひとつとして数世代にわたる国民の道しるべ役を果たしただけでなく、子孫のためにより良い生活を築こうと決意した新しい移民たちの心のよりどころともなった。大半のアメリカ人にとって自己犠牲の美徳は常に、欲しいものが市場ですぐに手に入るという誘惑にまさった。企業側はこのような建国の精神的支柱を根本からくつがえし始めた。つまりアメリカの勤労者を、未来への投資家から現在の浪費家に変身させようとしたのである。

 経営者側にすれば、もともと欲しくもないものを大衆に“求めさせる”には“満たされない消費者”をつくり出さねばならぬことを当初から悟っていた。ゼネラル・モーターズのチャールズ・ケタリングは、新たな消費の福音を最初に説いたひとりである。このころ早くも自動車のモデルチェンジを毎年行う戦略をとっていたGMでは、猛烈な宣伝キャンペーンを開始し、ユーザーがすでに所有している車では満足できなくなるようにし向けた。「経済繁栄のカギは、不満を組織的につくり出すことである」とケタリングはいう。この点についてのちの経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスは、ビジネスの新しい使命は「満足を求める欲望を生み出すことだ」と、さらに明快に述べている。

 20世紀初頭から経済学者の心を占めてきた生産重視の考え方は、ここにきて新たに生じた消費への関心とにわかに噛みあった。1920年代には専門家としての知的興味がますます消費者に向けられ、経済学の一分野として<消費経済学>が確立した。それまでのビジネス界では継子扱いされていたマーケティング学が、新たな脚光を浴びるようになった。生産者重視の風潮は、一夜にして消費者重視の風潮へと転じたのである。

 マーケティングへの関心の高まりは、経済を維持する上で消費者が肝心かなめの存在だという点に経営者側が感づいてきたことの反映である。歴史学者フレデリック・ルイス・アレンは、この新たな意識変化を次のように要約する。「ビジネス界は末端消費者のもつ重要性をかつてないほど身をもって学んだ。貪欲にモノを買うよう消費者を説得できなければ、六気筒エンジン搭載の自動車も、スーパーヘテロダイン受信機も、タバコも、頬紅のコンパクトも、電気冷蔵庫もなにもかもが売れ残ってしまうのだ」

 広告主が商品のセールスポイントを、単なる効能の説明から買い手のステータスや他人とは違う自分でありたいという気持ちに訴える内容へと移し始めるのも、時間の問題だった。どこにでもいる普通の人々が、以前ならビジネス貴族や社会的エリートの専有物だった富と繁栄の衣を身につけて、金持ちの向こうを張るようそそのかされた。企業や業界が自分たちの商品を最先端のおしゃれに見せかけようとするにつれ、<流行(ファッション)>という言葉が当時のキーワードとなった。

 ヘイゼル・カークのような消費経済学者たちは、勤労者の国をブランド志向の消費者国家に変えていく商業的な利点をいち早く指摘していた。経済成長には消費者側からの新たなレベルの購買行動が不可欠だ、とカークは断言する。「富裕層のための贅沢品」は「それより貧しい階層にとっての必需品」に変わらねばならない。そして「贅沢品のダイナミックな消費」に向けて労働者階級を再教育しさえすれば、過剰生産と技術革新による失業は緩和され、さらにはそれを一掃することも可能だ、と彼女はいう。

 アメリカの労働者をステータスを気にする消費者に変えることは過激な企てだった。大部分のアメリカ人は自分が使うもののほとんどを家で作っていた。広告主はあらゆる手段を使って「お手製」の製品をけなし、「店舗で購入できるもの」や「工場で作られたもの」を売り込んだ。特に対象となったのは若者たちだった。お手製のものを着たり、使ったりすることを恥ずかしいと感じさせることを意図して、広告のメッセージが流された。そして「最新」か「流行遅れか」が問題にされたのである。流行遅れになることへの恐れは、購買力を刺激する強力な動機付けとなった。労働歴史学者のハリー・ブレイバーマンは当時の商業精神を捉え、「ステータスの源がモノを作れるかどうかではなくなり、それらを購買できるかどうかになった」と述べている。

 数十年かけてゆっくりと基礎を築いていったマーケティングと広告という新しい概念が1920年代に開花したのは、絶え間なく向上する生産性に見合うよう消費を増やし、在庫を空にしたいという企業や業界の思いを反映してのことだった。かつては風変わりなものだったブランド名がアメリカ経済の目玉になった。南北戦争後、唯一のブランド商品といえば地元の雑貨店にあるベーカーのチョコレートくらいだった。1900年になっても、ほとんどの雑貨店が売っていたものは商品名もラベルもついていないビンや樽に入った砂糖、酢、小麦粉、釘、安全ピンといったものだった。

 仲買業者や卸業者の緩慢な動きを我慢できず、はやく商品をさばきたい製造業者は、自社のブランド名で直接商品を売り始めた。そういった商品の多くは目新しいものであったため、消費者の生活様式や嗜好を変える必要があった。スーザン・ストラッサは、多くのマーケティングの問題は、これまで存在しなかった商品を人々に売るために、人々が考えもしなかったニーズを作り出すことだったという。「広告はこれまでコーンフレークを買ったことのない人にその必要性を教え、またこれまで雑貨屋から量り売りでオート麦を買っていた人に、なぜ箱入りのクエーカーオーツ(オートミール)を買うべきかを教えた。それと同時に、箱入りの朝食用シリアルが、利便性を求める人の、モダンな都会の生活様式に合うことを教えた」。

 多くの企業は売上を上げるために製品の位置付けを変える方法を模索した。当初頭痛薬として売られていたコカコーラは、一般的な飲料水として新しく位置付けられた。当時、薬剤師だったアサ・キャンドラーが、コカ・コーラ社を創設するためにアトランタの薬局からコーラ製造販売の権利を買い取った時の理由は次のようなものだった。「慢性的な頭痛に悩む人が頭痛薬を必要とするのは週に1度だろう。多くの人は1年に1度ぐらいだろう。しかし、誰もが毎日苦しむことがある。1年のうち6ヵ月か8ヵ月は、1時間ごとにその症状に悩まされる。それはのどの渇きだ」

 1919年、全米砂糖精製会社はドミノ・ゴールデン・シロップを発売した。この新製品は1年を通して生産される。それまで、大部分のアメリカ人は糖蜜を使用していた。糖蜜は秋に作られ、冬のパンケーキの時期にだけパンケーキ用に使われた。1年中パンケーキを食べるよう消費者を説得することが難しいことに気づいた同社は、その新しいシロップの別の使い方を思いついた。そのシロップをソーダ水売り場にドミノ・シロップ・ナッツ・サンデーとして暑い夏の時期に売り込み始めた。

 企業はまた、製品の販売促進と売上増加のために、直接販売の計画をいくつも試みた。1920年代半ばには、景品や無料サンプルは当たり前になった。家庭用品の大手製造メーカーもまたクーポンを利用したり、地元紙に大々的な広告キャンペーンを行うようになった。

 しかし、アメリカ人勤労者の購買習慣を変えることをもっとも成功させたのは、消費者クレジットの概念だった。分割での購入は魅力的で、多くがそのとりことなった。10年もしないうちに、勤勉で質素なアメリカ人はすぐに満足感が得られる新しい方法を求める快楽主義文化へと改造されていった。大恐慌による株式市場暴落時には、米国で販売されているラジオ、自動車、家具の60%は割賦販売で購入されていた。

 大量消費の心理が生まれたのは、1920年代に多くの要因が合わさった結果だった。しかし、その時代に起きた変化の中で最も永続したのは、近郊住宅地区の出現だった。金持ちで有名な人々の優雅な田舎暮らしをある意味でまねて作られた、新しい居住地である。経済学者のウォルター・ピトキンは、「近郊住宅地区の住宅所有者は、理想的な消費者となる」と予測した。

 1920年代には700万人以上の中流家庭が都市近郊に移住していった。彼らの多くは都市部から郊外への移動は人生の折り目となる出来事であり、アメリカ社会に到着したことの宣言だとみなした。近郊の住宅所有者は、カントリー・クラブ・レーンとかグリーン・エーカー・エステートといった、排他的な名前を持つ通りや区画名による新しいステータスを授かったのである。郊外の住宅は住居だけでなく陳列物にもなった。「隣人に負けないように見えを張る」ことが何よりも大切になり、多くの郊外の住宅所有者はそれにとりつかれた。広告主は新しい郊外の「誇り高き人々」を標的にし、無数の新製品やサービスで自分の城を満たしたいという要求に答えた。

 1929年までには、コンシューマリズムの大衆心理がすっかりアメリカに根をおろしていた。ヤンキーのつつましさや開拓民の自己犠牲といったこの国の伝統的美徳は、色あせつつあった。同年、ハーバート・フーヴァー大統領の<近年の経済変化に関する委員会>は、ここ10年足らずのうちにがらりと様変わりした大衆心理について意味深い報告書を発表した。その報告書は、アメリカを待ち受ける未来への熱い期待で終わっている。

 長い間主張されてきた理論、すなわち欲求には際限がなく、満たされた1つの欲求はまた新たな欲求に道を開くという理論の正しさが、調査からは疑う余地もなく証明された。結論として、我々の経済の前途には果てしない活動の場が広がっている。そこには新しい欲求があり、それが満たされるやいなや、さらに新しい欲求への道が限りなく開かれていくのだ。・・・広告宣伝や他の販売促進手段は、生産面にかなりの効果をもたらしてきた。・・・我々はさらに経済を活性化しながら進み続けることができるだろう。・・・我々は幸運な状況におかれ、我々の勢いは非凡である。

 株式市場が崩壊し、アメリカと世界が近代史上最悪の恐慌へと投げ込まれたのは、それからわずか数ヵ月後のことだ。

 当時の多くの政治家や実業家と同じようにフーヴァー委員会も、供給が需要を創出するという考えにひどく凝り固まっており、経済を大恐慌へと傾斜させつつある負の力を見抜くことはできなかった。新しい省労働テクノロジーの導入によってもたらされた失業の増加を埋め合わせるため、アメリカの企業は広告や販促キャンペーンに巨費を投じて、まだ仕事を持っている人々を乱費散財の浮かれ騒ぎに巻き込もうとした。だが、不幸なことに賃金労働者の収入は、生産性や生産量の増大に見合うほど急速には増えなかった。雇用主の大半は、生産性向上によって生まれた余剰利益を賃金の形で従業員に回すより、むしろその金を懐にしまい込む方を選んだ。ヘンリー・フォードなどはさすがに、会社が作っている製品を買えるくらいの金は労働者に支払うべきだと提案した。さもなくば「誰が私の車を買ってくれるというのか」と彼は問い掛けている。だが同業者たちはフォードの忠告に耳を貸そうともしなかった。

 ビジネス界は依然として、自分たちが棚ぼた式に利益を上げ賃金を抑制してもなお、消費者というポンプに呼び水をさせば生産のだぶつきを充分に吸い上げ続けてくれると信じていた。しかしながらそのポンプは錆びつきかけていた。新手の広告宣伝戦略は、たしかに大衆の消費心理をかきたてた。とはいえ、市場に氾濫するあらゆる新製品を購入できるだけの実入りがない勤労者は、品物を割賦で買いつづけた。当時の批評家のなかには、「商品は生産される先からどんどん質屋に入れられてしまう」と警告を発した者もいた。だがそんな警告も顧られぬまま、やがてすべてが手遅れとなってしまう。

 ビジネス界は、切迫する経済危機を生み出している原因が自らの成功そのものにあることを理解しそこなっていた。労働者を省労働テクノロジーに置き換えることで生産性を向上させてきたアメリカ企業は、その代償として、自社製品を買う力もない失業者や不完全就業者をさらに大量に生み出したのである。大恐慌の時期でさえ生産性は伸び続けており、それがいっそうの失業をもたらし経済不況に拍車をかけた。1938年にフレデリック・ミルズが発表した製造業部門の研究によると、勤労者の延べ労働時間の減少の51%は生産性向上や人員整理と結びついたものだという経済システムはいまやおぞましくも皮肉な自己矛盾にとらわれ、そこから逃れるすべは見当たらなかった。だが、空前の大不況に足をすくわれながらも多くの企業は、生産性の伸びを期待して従業員を機械に置き換えて、経費を節減し続けた。それは火に油をそそぐ結果を招くだけだった。

 イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケイングが1936年に発表した主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、各国政府がとっている経済政策の抜本的変更を迫るものだった。その予見に満ちた一節のなかで、ケインズは、新しい危険な現象が数年先には深甚な影響を及ぼすだろうと警告している。「我々がいま苦しんでいる新たな病の名前を聞いたことのない読者もおられようが、そのような方々でも今後数年のうちには幾度となくその名を耳にするにちがいない。“テクノロジー失業”という病がそれである。これは我々が、労働力の新しい利用方法を見い出す以上に速いペースでその労働力の利用を倹約してしまう手段を発見したがゆえに生じた失業を意味している」