No.515 新しい対立

今回は「グローバル化という名の戦争」(OWメモ No.507)でマイケル・マッキンレーが引用した、ジョン・ケネス・ガルブレイスの記事をご紹介します。1994年に書かれた記事ですが、グローバル化がもたらす影響として今の時代にも当てはまると思います。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

新しい対立
ジョン・ケネス・ガルブレイス
『アメリカンプロスペクト』 1994年夏号

 現代の経済生活は、国境を越えて、先進的あるいは後進的国粋主義を阻む、入り組んだ蜘蛛の巣のような関係を形成している。今日、貿易、投資、企業、技術、コミュニケーション、旅行といった活動は執拗に国境を超えた動きを示している。しかし、同じグローバル化は、経済の安定のための国家能力を弱めることになるのである。ここに見る逆説により、第一の対立が生じている。

 一方で、より緊密な経済的、政治的結合に向けた広範な推進力が存在する。これは欧州連合や北米自由貿易協定(NAFTA)、あるいは太平洋アジア諸国とオーストラリア間の初期の経済連合を見れば明らかである。しかし、この傾向と相反するものとして、近代国家には社会的、経済的責任が今も残っている。医療や教育、住居などの提供、それに加えて予算編成、徴税、マクロ経済政策や雇用レベルの維持といったことは、今も、個々の政府の責任であることに変わりない。つまり、ここにも対立が存在する。より広範な地域、例えば、もはや軍事的な対立はなく政治的に安全な関係にあるイギリスやフランス、ドイツといった広範な地域に対して、政治的、経済的な結びつきを強く求める傾向がある。

 しかし、その一方で、個々の国家には、社会的役割や責任と、それに付随した予算や税制、歳出、赤字などといった広範なマクロ経済的仕事がある。現在の組織的な展開を見ると、これらの任務をすべて担う世界的組織は存在しない。欧州連合でさえ、加盟国共通の財務、金融当局は存在しない。加えて、国家のアイデンティティや言語、文化など、古代からの継続的な繋がりがあることから、より大規模な連合に対する抵抗が見られる。

 こうした事柄があるからこそ、より大規模な連合の中に、自国から遠く離れたところに、恐らく明確な形のない政府を作るといっても簡単に同意が得られないのである。ヨーロッパでは、連合の提唱者と連合分離の提唱者との間で、熾烈な議論の火花が続いている。その最も激しい争点は、統一通貨に関するものである。統一通貨は魅力的な目標だが、その達成には各国間の経済、社会、財務政策の調整が必要である。そうした調整なしには、統一通貨は魅力的だが実質の伴わない夢で終わってしまう。

 NAFTAの場合は、統一通貨や財政政策に関するビジョンはなかった。その代わりに、NAFTAに関する米国やカナダにおける議論はずっと初歩レベルで展開され、政治的に洗練された、より大規模な連合は、財界に経済的な利益をもたらすことは明白であったとしても、そのために国内問題、特に雇用や環境はどれだけ犠牲にされなければならないのかという点に移った。この議論はすぐには終息しそうにない。基本的な対立である、「国家の主権」対「より緊密な連合の利益」という避けられないジレンマは、どちらにしても存在し続けるであろう。

 この10年間、第2のより深い対立が近代国家に見られる。ある時期、資本と労働の間には、誰もが認める闘争があった。民主主義はこの対立を隠すためのはかない取り繕いでしかなかった。政治的発言は資本家を擁護するものばかりだった。

 しかし、もはやそうではない。国際競争は独占や寡占の持つ明白な力を弱めた。かつては米国やカナダ、イギリスなど古くからの工業国では企業の力に対する懸念が支配的であったが、今はそれに代わって企業の弱さに対する強い懸念が存在する。ここに第二の逆説が存在する。企業の力が弱まったからといって労働者の力が復活したわけではない。むしろ階級闘争の性質に大きな変化がもたらされたということだ。

 私は以前にもこの点を指摘した。強力な労働運動、特に組合の力を強めるには、強力な雇い主が必要である。後者の力が弱まれば、もちろん前者も弱まる。企業の余剰利益が消えれば、労働者を組織化することに対する意欲や動機も消えてしまう。なぜなら労働運動から勝ち得る報酬も消えてしまうからである。その代わりに、雇用主の存続に関する心配が生まれ、多くの場合労働者の財政的コミットメントも心配の種になる。したがって、マルクスのいう階級闘争は消滅したといえる。少なくとも我々の先進的な経済社会により当てはまるのは、持てるものと持たざるものの間に存在する対立である。相対的に裕福な人の多くは政治的な力を持っている。古くからの資本家や生き残りの企業家に取って代わっている管理者や官僚、またかつての強力で今も裕福な財界に加わって力を持つようになったのは、専門家、学者、文化人、娯楽産業従事者、さらには現代の不労所得階級や多数の現役引退者からなる大規模で広範なグループである。ここには政治的な発言と票が存在する。またここでは景気が悪くとも、ある程度の幸福が持続する。不景気と雇用の創出の不足(経済学者がいう不完全雇用均衡)は自分以外の者が被る災難でしかない。

 その災難を味わうのは、単調で退屈な仕事をする人やサービス業界の従業員、働きたいのに職が見つからない人、職探しをあきらめた人々などである。裕福な人々の社会からも、外部の人々に対する心からの懸念は表明されるが、それを支配しているのは、しかも自分たちの利益のために支配しているのは、こうした富裕者である。米国に最も顕著であるように、近代政治にはこうした現象があふれている。その結果、恵まれない人々の多くは投票しない。すべての候補者が、ある程度、基本的に現状維持を望んでいることを考えると、彼らが、投票すること自体を疑問視するのは的を射ている。

 資本家と労働者の間に、現在も将来も、社会的、政治的対立は存在しない。対立が存在するのは、何不自由なく、恵まれている者と、相対的にあるいは特に貧しい人々の間である。この対立は平和的なものではないかもしれない。政治的発言と参加に訴えることができないとすれば、暴力に訴えるしかない。その危険性はすでに米国に明らかである。ヨーロッパでも、発言権のない巨大な下層階級が、肉体的にも精神的にもつらい仕事を行わせるために海外から輸入され、その結果、気がかりな国粋主義の再燃につながっている。

 この新しい階級闘争を解決する手段は、従来の階級闘争の解決策と大差ない。経済は十分な雇用が提供されるよう管理され、また必要に応じて支援されなければならない。そのために、不完全雇用均衡を崩すのに必要な場合は、公共投資や雇用創出といった強力なマクロ経済の行動が必要となる。さらに予算の引き締めも必要になるが、これは経済が順調に機能している時だけである。

 雇用が提供されていない者にとって、また働けない者にとっては、安定し、かつ十分な安全網が必要である。効果的な教育制度も必要であり、下層階級の欲求不満のはけ口となるよう、上昇志向の可動性を提供するために、教育制度ほど、重要なものはない。加えて先進工業国ではどの国をとっても、市場制度によって、低所得層にまともな住居が提供されているところはないということを認識しなければならない。最終的に、医療サービスや、麻薬やアルコール依存症に対するカウンセリングが、すべての国民に提供されるべきである。こうした措置を提供することは、国家の守備範囲が侵食されるにしたがって難しくなるが、決して不可能なことではない。

 これらの必要性について、あるいはそのほとんどについて、活発な議論は存在しない。それに触れることはよくあるが、触れるだけでは、すべてが税金によって賄われるのをただ見守っているに過ぎない。したがって問題は、快適な生活を送っている人にとって、費用負担を自ら引き受けるよりも、下層階級を形成する人々の特性に欠点を見つけたり、移民法やその執行に欠点を見つけたり、徴税や侵略的な国家に対する高潔な抵抗に社会的な美徳を見つける方がいかに簡単かということにある。そこで、富裕者は、何かやっかいなことが起こると、警察を増やしたり、刑期を長くしたりすることを要求する方が、あるいは郊外に引っ越す方が容易であると考える。

 特権階級は自分たちの立場について、防衛的かつ短期的な見方をするのが常である。しかし、国家の行動なしに、貧困を緩和したり、下層階級の生活を向上させようとすれば、短期間で実績を示す措置はない。それどころか、議論は結果を求めようとするよりも、特権階級に不都合な良心や犠牲を軽減しようという方向に向かっている。我々の経済的未来は、国家の自治と世界的な連合の間に見られる対立と、富裕者と下層階級の間に見られる対立という2つの相互に関連する対立をどのように両立できるかにかかっている。

 経済、社会的目的のために国家の自治を実行することと、より大きな世界的な連合の間に存在する対立は、双方向のプロセスによってでなければ解決できない。財政や雇用政策といった役割は、ヨーロッパで行われ始めたように、時間をかけて国際組織に引き継がれなければならない。そして連合を組織する国家は、国内の社会、財政、通貨の問題に対して共通の措置をとる必要があることを認めなければならない。貿易交渉に向けられているエネルギーや関心の一部を、同様に重要な経済、社会政策にも向ける必要がある。

 下層階級の問題については、簡単な答えはない。恐らくルーズベルトが行ったように、その使命を感じた指導者が、下層階級を政治プロセスに組み込み、社会秩序の中で完全な参加を与えることができるかもしれない。恐らくロス暴動で見たような、社会的安定に対する脅威に気づけば、その必要性が理解できるであろう。しかし、今後どうなるかはわからない。支配権を持つのは富裕者であり、彼らが明確なあるいは幸福な結末への誘惑にあえて抵抗しなければならないのである。