No.521 サヨナラ「まじめ番組」

今回はテレビについて、米ABC放送の「ナイトライン」の司会者交代が発端となって書かれた記事をいくつか読み、私が感じたことをまとめてみました。

サヨナラ「まじめ番組」

少し前、米国で、いわゆる「まじめな報道番組」とされるABC放送の「ナイトライン」の司会者交代のうわさが大きな話題となった。その番組は、くだらないゴシップ番組などとは一線を画した、まじめな番組と考えられていたため、その番組の打ち切りを嘆く者も多かった。

結局は司会者コッペル氏の交代も番組の打ち切りもなかったが、私はテレビからまじめな番組がすべて消えてしまった方が、文明にとってはむしろ前進ではないかと考えている。

なぜならテレビ番組にまじめさや教育効果を期待すること自体が危険だからである。「まじめな番組」すべてが打ち切られた方が、人々がテレビを買いかぶらなくなり、テレビが本来あるべきところに位置付けられるようになるだろう。

昨年の九月十一日以降、米国のテレビ番組はしばらくはテロとの戦い一色であったが、もはやその戦いも視聴者を引きつける力を失ったようである。芸能人のとっぴな行動や酔っ払いスポーツ選手、アカデミー賞やペットの四十歳の亀、殺人鬼母の裁判といった、どうでもいいことが再びだらだらと放映されるようになった。

こうして、米国人は危険で予断を許さない世界情勢についてますます無知になっていくのである。米国では98%の国民が、ニュースはテレビで知ると答えている。しかし、そのテレビニュースからは、世界で実際に何が起きているのかを知ることはできない。アフガン戦争を例にとると、米国のニュース番組で報じられる内容は、その朝、米国防総省が出したリリースがほとんどである。

また最近では経費削減のため、テレビ局が海外に派遣している特派員はいないも同然だという。取材のために数日現地に滞在しただけでは、旅行者以上のことがわかるはずがない。さらに、前述のナイトラインのコッペル氏を含め、ニュースを人々に伝えるはずの報道番組の司会者は、一般庶民には想像すらできない何億円もの報酬を得ている。

すなわち彼らには、ニュースをありのままに伝えることよりも「役者」としての演技が期待されているのである。米国のテレビ局の問題としてさらに指摘すべきことは、米国の報道機関のほとんどが、少数企業の独占資本に支配されているという点である。

米国政府は、マイクロソフトにばかり気を取られていずに、独占資本による報道機関の買収/合併をなんとかすべきであると思う。例えば一つの企業による複数の新聞社の所有や、さらにはテレビ、ラジオ、ケーブル放送局などの買収を禁じるべきである。

人がどのインターネット・ブラウザを使うかよりも、国全体にあらゆる放送局から同じメッセージが流されることの方が、自由社会として大きな問題である。テレビはもともと知識を提供したり、教育に貢献したりするものではない。これはニューヨーク大学のニール・ポストマン教授らが長年主張してきたことである。

テレビは既存の知識を再送信するのではなく、既存の知識に脚色を加えたり、知識の性質そのものを堕落させたりしていると、その著書に記されている。日本でもかつて、ジャーナリストの大宅壮一氏が、テレビ番組の俗悪ぶりを「一億総白痴化」と形容し非難したというが、今日の日本のテレビ普及率と番組の内容を見る限り、日本もまさにこのポストマンの指摘する状況にあると思われる。

コマーシャル収入で成り立っているテレビという媒体からほとんどのニュースや情報を得ている社会では、国民は単なる消費者に成り下がり、政治家や総理大臣よりも芸能人をより尊敬できる存在として崇めている。

また、重要な国家的演説も誰もが理解できるようにと幼稚な言葉に換えられ報道されている。テレビのように俗っぽく感情的で、画像中心の媒体に一番ふさわしいのは、自動車事故や台風、山火事やどろんこプロレスであり、知識や教育の伝授ではない。

事実、百科事典などに書かれた無味乾燥な内容がテレビでそのまま放映されることはほとんどない。知識とは論理的な方法で静かに熟考したり、熱心に説明される内容を一生懸命理解したりすることによって、初めて身に付くものである。

そしてそれは書物を読むことによって得られるものであり、時間をかけて、まじめに読書を続けることで知識としてようやく自分のものになってくるのである。私が人々に読書を薦める理由はそこにある。