今回は、よく聞かれる「日本もグロ―バル化しなければ、世界から取り残されてしまう」という主張に反論してみたいと思います。日本は本当にグローバル化する必要があるのか、また米国ではグローバル・スタンダードなどという表現は聞かれないのに、なぜ日本ではこれだけ声高に叫ばれているのか、その理由について分析してみました。
グローバル・スタンダード
私がよく見聞きする英語もどきに「グローバル・スタンダード」というものがある。一例は、「市場はますますグローバルになるから、日本はこれまでの社会のあり方やビジネスの方法を捨て、政治も企業経営もグローバル・スタンダードにしなければ国際競争力が弱まる」というものである。今回はこれに反論したい。
日本人による造語
まず、グローバル・スタンダードは日本でつくられた造語で、これを使うのは日本人しかいない。私はアメリカ人だが日本で言われるような話をアメリカで聞いたことがない。この言葉は一部の日本人が自国民をだますためにつくった言葉のようだ。
さらにグローバル・スタンダードは、ほぼ百パーセント「アメリカン・スタンダード」である。つまり日本人にとって世界とはアメリカのことで、これまでのやり方を捨ててアメリカ人のまねをしましょう、アメリカ人に従いましょうということなのだ。
日本の経済は主に国内経済で成り立っており、海外に依存している部分はわずかしかない。具体的にいえば、99%が国内経済で国際は1%である。経済における国際の部分は、輸出から輸入を差し引いた純輸出である。
二〇〇一年の日本の輸出額は国内総生産(GDP)の11%で輸入額は10%である。一九五五年までさかのぼっても常に純輸出はGDPの1-2%である。そしてグローバル経済に当てはまるのは、この1%の純輸出だということを理解しておく必要がある。
輸出企業は、海外での価格競争力を上げて製品を売りやすくするために円安を望む。そのために円安誘導を政府に働きかけるが、円安によって日本経済の11%に当たる輸出は恩恵を受けても、10%の輸入については輸入品の価格が上昇し悪影響が出る。差し引き、円安でプラスになるのは純輸出の1%だけということだ。また何よりも、円安とは日本人の収入や富の価値が目減りすることにほかならない。
輸入品の6割不要
日本は資源がなく輸入に依存しているから輸出で外貨を稼がなければ、という説も今では当てはまらない。数十年前には、確かに輸入のための輸出に励んでいた。今日、それは逆転し、過剰に輸出を行っているがゆえにその分、余分なものまで輸入しなければならなくなっている。
海外にたくさん自動車を輸出しているために、日本製品より劣っていても外国製部品を輸入しなければならない。一週間たっても腐らないアメリカ産サクランボを輸入しなければならない。さらに、海外からの輸入が増えるようにと、日本の国内規制まで外国に指図されている。
私の試算では、現在日本が輸入しているものの六割は不必要か、日本に有害なものである。高価なブランド品は不要だし、日本の医薬品基準を満たさない薬や、農薬にまみれた農産物など有害以外の何ものでもない。また、日本の食料自給率の低下は独立国家としての危機でもある。日本が食料を依存している国からの供給が不安定になったらどうするというのか。
では99%が国内経済で賄われている日本が、「グローバリズム」や「国際競争力」といった言葉に、なぜここまで踊らされているのだろうか。答えは輸出企業にある。
日本の総輸出額の半分は、わずか三十社の企業で占められている。その売り上げはGDPの12%に相当するが、従業員数は日本の全労働者の1%に満たない。平均的な日本企業は売上一億円当たり三・六人を雇用しているが、この三十社は一・四人である。
日本国民を洗脳
さらにGDPの12%の売り上げがありながら、三十社が払う法人税は全法人税収の5%である。平均的な日本企業は国内売上の約3・6%を法人税で支払っているが、三十社は売り上げの約1・4%しか法人税として納めていない。
それにもかかわらず政府は円安を望むと公言し、日本に「グローバル・スタンダード」を採用させようとする。これは輸出企業が法人税を払うかわりに政治家に政治献金を提供し、官僚に天下り先を用意し、宣伝を通じてマスメディアを掌握し、高額の顧問料をエコノミストや識者たちに支払ってテレビ番組でけん伝させているからである。そしてそうした番組や新聞記事を目にする普通の人々も「グローバル・スタンダードにしないと日本の国際競争力はなくなる」と日々洗脳されている。
しかし考えてみればこれら輸出企業三十社は、戦後、必死に日本の復興に尽くし、日本を「経済の奇跡」に導いた中心的存在でもある。その同じ三十社が今、他の日本国民を洗脳してまで利益追求を目指している。
つまりこれら三十社の行動は、日本人全体の価値観の変化の表れにすぎないのだと思う。日本が、他者の幸福をも願う利他の精神、聖徳太子の時代からの「和」の価値観を捨て、アメリカン・スタンダードを採用してきた結果であり、生きる目的はお金への欲望、人よりも金持ちになることが何より大事になってしまったからなのであろう。