今回は、私が考える「公平な税制」、累進課税について説明します。累進課税は、一生懸命働いて多くの所得を手にした人に高い税率を課し、熱心に働かず少しの所得しか得られない人の税率を低くするのは不公平だという意見をよく聞きますが、それについても反論しています。
公平な税制とは何か
今回も税制、特に所得税は累進的に課税されるべきだと私が考える理由について述べたい。
経済が健全に機能しているといえるのは、需要と供給のバランスがとれている時だけである。技術革新が急速に進み、製品の生産や流通が機械化され、供給量は絶えず増え続けてきた。
しかし、生産が自動化されても、需要や消費は自動化も機械化もできない。なぜならそれは人間の欲求やニーズによって決まるからで、従って生産は消費を上回る傾向にある。
所得は累進課税で
一般に、低所得層の所得に占める消費割合に比べて、富裕層の所得に占める消費割合はずっと低い。そのため、消費されずに預金に回る富裕者の所得を累進税により徴収し、それを社会消費に充てれば、今、不足している消費を一挙に増やすことができる。
ただし社会消費といっても、ほとんど使われない橋の建設や金融海賊への補助金にではなく、教育や住宅、健康保険、公共交通網といった人々の生活に関連するサービスや福祉に充てる。そうすれば、不安な将来をおもんばかってなされる預金も減るだろう。
公平な社会とは、社会の総生産から、幼児や高齢者、病弱で働けない社会の構成員のケアに必要な分を除き、残りを働く人々に、その生産の貢献度に応じて所得として配分するような社会だと私は思っている。
ここで私のいう働く人々とは、個人の体力や能力を使って生産に従事するサラリーマン、職人、教師、看護婦などさまざまな職に就く人々のことで、投資や土地からの不労所得で生活する者は含まない。
こうした公平な社会の実現は、所得税の累進性なしには不可能だと私は思うのだ。なぜなら低所得者は所得のほとんどを消費に充てるが、金持ちであればあるほど消費の割合は累進的に少なくなり、逆に預金が増える傾向にある。さらにその預金は労働所得以外の利益を狙って投資に回る傾向にある。
不公平論への反論
つまり働いて所得を得ることに加え、預金を運用してさらに利得を得ているのだ。しかし、そうした預金の利子収入が増えれば増えるほど、社会の総生産から労働者に渡る分け前は減ることになる。
累進課税は不公平だという主張がある。一生懸命働いて多くの所得を手にした人に高い税率を課し、熱心に働かず少しの所得しか得られない人の税率を低くするのは不公平だというのだ。もしそれが山奥に一人で暮らし、自給自足の環境であれば確かにそうかもしれない。
しかし、地域社会に住む人間が一人で生産できるものなどほとんどない。そのような状況では、社会に対する個人の貢献度を正確に割り出すことなど不可能なのである。
道路や鉄道、学校や病院、警察、その他もろもろの社会のインフラやサービスを利用したからこそ生産ができるのである。いくら「自分の所得」だと主張しても、何をもって公平な分け前とするかは結局社会が決めることだ。税制を累進性にするか、逆進性にするか、比例性にするかの決定権は社会の側にある。
富裕者の中には、累進課税にすると、寄付や利他的なものに使われるはずのお金が政府の手に渡ってしまうと指摘する人がいる。私はこの意見にも反対である。
富と社会腐敗の関係
民主主義社会においては社会の生産物の中で消費に回らなかったものをどう使うかは、一人の富裕者の好みではなく、地域社会によって選ばれた政府が決める方がよいと思う。そして歴史を振り返ってみても、過剰な富は社会をよくするよりも腐敗させる利己的な目的に使われることの方がずっと多かった。
所得税の累進課税によって産業を活性化させ、競争力維持に必要な研究開発、設備投資費などの資金を預金できないという主張もあるが、これにも反論したい。
現在、過去十年間、そして今後予見できる将来においても、日本の問題は過剰生産にある。すでに問題を抱えながら、なぜさらに過剰生産のための投資が必要なのか。また今よりずっと高い累進税が課せられていた昭和時代に、投資が不足したり産業の活性化や競争力が阻害された事実があっただろうか。
むしろ生産性も競争力も高い伸びを記録した昭和時代は、所得税も相続税も法人税も、今よりもずっと高い累進課税だった。現代と違うのは、生産物の多くは生産に貢献した労働者に分配され、お金を生むためにお金が利用されることはなかった。
過剰な利益を得るために過剰生産をしようと思う気持ちが、累進税率の低下とともに強まったと私が主張する理由はここにある。