No.553 暴力が導くもの

 テレビ、映画、コンピュータ・ゲームなどから絶え間なく流される暴力シーンを見つづけることによって、人間は暴力に無感覚になる。表現の自由といえば聞こえはよいが、実際は、自由という名のもとでおこなわれる洗脳に等しい。殺人を犯すには、野蛮になるか、無感覚になることが必要であり、この無感覚化が、マスメディアを通して行われている。

暴力が導くもの

 十年後の日本を知りたければ、今のアメリカを見ればいいといわれる。統計を調べてみると、殺人の発生率についていえば1995年にはアメリカは日本の約8.2倍であったが、2000年には5倍と、確かにその格差が縮まっている。このままいけばそう遠くない将来、日本はアメリカのようになってしまうことだろう。

 メディアやインターネットの普及によって、人間が深く思考することなくイメージとして簡単に入ってくるポップ・カルチャーのようなものは、十年はおろか、数年、ものによってはほぼ同時に世界中に伝播される。

縮まる日米の格差

 今アメリカの若者の間で流行しているものにラップ音楽というものがある。それは70年代後半にアメリカの都市部黒人たちから始まったとされ、起伏のないメロディーでリズムに乗って早口でしゃべる(ラップ)不平不満を歌ったもので、特に貧困にあえぐ黒人たちを代弁する。その動きからヒップホップとも呼ばれている。

 問題はその歌詞があまりにも過激で、暴力を肯定する挑発的なものだということだ。貧困で不幸な生い立ちの中からラッパー(ラップ音楽の歌い手)として有名になることは、ある意味で、ルンペンプロレタリアート(マルクスの呼ぶ、階級意識に乏しく革命勢力たりえない労働者階級)にとってはアメリカン・ドリームかもしれない。

 しかし、ラッパーたちが歌詞だけにとどまらず、生活そのものが暴力や犯罪にまみれているという事実がアメリカの若者たちの心にどのような影響をもたらすのかを考えたとき、私は強い恐怖を覚える。

 暴行、麻薬、殺人未遂、殺人と、まるで映画のような事件を地でいっているラッパーたちは、アメリカンドリームなど決して手にすることのできない貧困にまみれた青少年のヒーローなのである。

 アメリカにおいて暴力事件はもはや日常茶飯事となった。アリゾナ、オクラホマ、そして殺人・強盗発生件数が過去十年間に半減したとはいえ、依然と全米平均の8倍の殺人が起きている犯罪多発地域であるワシントンDCなど、常にどこかで銃の乱射事件が起きている。

 大量の被害者が出るのも、日本や他のアジア諸国のように銃規制が厳しくないことが原因である。米国の殺人の実に7割は銃によるものである。ラップ音楽の擁護者も、ラップ音楽そのものが原因で暴力が増加しているのではなく、音楽の流行は暴力的な社会情勢を反映しているにすぎないとし、米国にまん延する銃や、経済の停滞による貧困化をその原因だとする。

先進国一の犯罪率

 米国は、先進工業国のなかでどこよりも暴力犯罪の多い国である。米国よりも多い国は第三世界のグアテマラ、コロンビア、ジンバブエといった国だけである。それが、日本が模倣し、実際に近づきつつある米国という国なのである。

 この11月に発表された犯罪白書によれば日本の2001年の刑法犯の認知件数は、約358万1500件で戦後最高を6年連続で更新したという。

 一方の検挙率は19.8%で戦後最低になった。暴力的色彩の濃い犯罪、強盗、傷害、暴行、脅迫、恐喝、強姦、強制わいせつ、住居侵入、器物損壊の九罪種の件数が、97年に年間約10万件だったのが、2001年は約25万件に急増し、また少年の検挙人数は約19万8900人(前年比2.9%増)で、3年ぶりに増加したという。

 これも、日本のリーダーたちがさまざまな制度を変え、米国を手本として日本という国を壊してきたからである。日本が目指す米国という社会がどのようなものか注意深く観察してほしい。そこにはどの先進工業国よりも大きな貧富の格差が、持てる者と持たざる者との間に横たわっている。

国民も無感覚に

 米国の富裕者や権力を持つ人々が自分たちよりも恵まれない立場の人々に対してとっている態度を精査してほしい。思いやりを示すどころか、誰を犠牲にしようとも自分だけが富めばよいというものではないか。

 また、大国ではなく第三世界の小国に対して米国政府がとっている行動も見てほしい。それは常に非は相手にあるとした、暴力的な態度ではないか。つまり、国家も国民も暴力に対して無感覚になってしまっているのが米国なのである。

 ラップ音楽、テレビ、映画、そしてドラマか現実か錯覚を起こすような銃乱射事件や米軍による爆撃シーンが、日々、米国人を暴力に対してますます無感覚なものにしていくのだ。

 11月に行われた米中間選挙の投票率は39%台だったという。他の国に民主主義を押し付けながら、自分たちの代表者である大統領を選出する権利を約6割もの国民が放棄しているのが米国である。

 もちろん、この低い投票率も日本が米国を手本にしているものの一つである。これも、国民が革命勢力となりえぬよう政府が政策として低投票率を誘導するために、あらゆる刺激物や暴力をイメージや音楽とともに垂れ流し、それを目にし、耳にしているうちに抵抗も反発も鈍くなるようにさせられている結果なのだろうか。

 プロパガンダに流された国民が「独裁者待望論」をあたかも唯一の選択肢だと思うようになることほど、恐ろしいことはない。米国をまねる日本にもその芽が出ているとはいえないだろうか。