No.590 程遠い日米の友好関係

 少し前に「ブッシュ妄言録」(発行ぺんぎん書房)という本が出版され、その中に「アメリカと日本は150年もの間、近代においてもっともすばらしい同盟関係の一つを結んでいる」(2002年2月18日の国会演説)というブッシュ語録が掲載されていた。アメリカが投下した原爆で数十万人もの日本人が亡くなったことなど知らないのか、またはアメリカ大統領の日本への認識はその程度なのだろうと思うのだが、日米関係について同じように奇妙な記事が、日本で最大の発行部数を誇る大新聞が発行する英字新聞に掲載された。

程遠い日米の友好関係

 ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に来航してから今年は150年になる。その記事は「日米関係への友好的な始まり」というタイトルで、フィルモア大統領の国書を持ってペリーが友好的に開国をお願いにきたという論旨である。この大新聞は一般に言われている砲艦外交は誤りであり、日本とアメリカが150年間、対等のパートナーで友好関係にあったことを強調したいようだが、これは意図的な歴史の改ざんにも等しい。アメリカのやり方を「友好的」だとみる日本の新聞に、アメリカ人の私がクレームをつけるのもおかしな気もするが、今回はこれについて書いてみたい。

 当時、日本は鎖国状態ではあったが中国が阿片戦争でイギリスに負けて南京条約を結ばせられたことを知っていた。これは中国をアジアの中心だと思っていた日本にとって大きな衝撃だった。そこにペリーが黒船で来航したが、それは砲艦外交以外の何ものでもなかった。その戦艦は当時、世界でも最大級の破壊力を持つものであり、ペリーはそれをちらつかせて日本に開国を迫ったのである。

 アメリカの要求は蒸気船への石炭補給、難破捕鯨船の乗組員保護、貿易のための開港などだった。ハワイを補充基地にしていたが十分ではなかったため、1846年には米海軍のビドル提督が開国を求めて浦賀に来航したが、抵抗に遭って帰国している。そこで戦艦による威嚇しかないと、ペリーが登場した。

 ペリーが友好的だったとする理由として、実際に武力を行使しなかったことを挙げているが、自分の要求を受け入れさせるために武力をちらつかせることは友好的でも平和的でもない。武力による威嚇が国際社会に対する脅威であることをアメリカは知っていた。だからこそGHQによって書かれた日本憲法が、戦争だけでなく“武力による威嚇”をも永久に放棄すると規定しているのである。ペリーは意図的に帆を下ろし、日本人にその技術的優位性を見せつけた。米海軍を前に日本はその希望通りにするしか選択肢はなかった。アメリカでは領土拡大を「明白な運命」として正当化し、白人によるインディアンの大量虐殺が行われていた時代である。

 翌年ペリーは戦艦7隻を率いて再度来航し日米和親条約を結ばせた。1856年にはアメリカ総領事ハリスが貿易開始の条約締結を要求し、1858年に日米修好通商条約が結ばれた。この条約は、治外法権を認め、また日本には関税自主権がないなど、南京条約と同じ不平等条約だった。開国し貿易が始まると外国から毛・綿織物などが輸入され日本からは生糸や茶などが輸出された。そのため国内では生糸の品不足から絹織物業が圧迫され、機械製の安価な綿織物が大量に輸入されて綿織物業は成り立たなくなるなど国内経済は混乱した。

 当時アメリカ北部は工業中心、南部は農業中心で綿花などを輸出しヨーロッパから製品を輸入していた。南部は自由貿易と低率関税を主張したが、ヨーロッパと比べ工業の競争力が弱かった北部は産業育成のために保護貿易と高率関税を主張し、輸入品には高関税を課した。アメリカの主要な税収は南部の関税で、北部はその税収で産業を支援する道路や鉄道などのインフラを構築していた。

 リンカーンが大統領になると南部諸州が合衆国を離脱して南部連合国を作った。この南部の税収を取り戻すために北軍は南部を侵攻した。奴隷解放のための戦争ではなく、それは経済戦争であった。そしてアメリカは自国の産業を保護するために約50%という高い関税を保ちつつ、不平等条約によって日本には0%か5%の輸入関税を受け入れさせた。いったいこのどこが友好的だというのであろう。

 たしかに、日米関係はこの150年間変わってはいない。それは友好的とは程遠い、アメリカの強硬な姿勢に常に日本が屈するという関係である。そして明治維新のリーダーは自分たちの存在理由を正当化するために江戸の時代も幕府も悪者として描き、そのために外圧を利用して開国し西欧のようになることを推進した。これは今、日本のメディアが歴史の事実をゆがめ、日本をアメリカのような国にしようとしているのとまったく同じである。そして残念なことは、これまでのところ日本のメディアは明治維新の志士たちのように日本という国を変えることに成功しているということだ。