父親が亡くなり、散骨のためにアメリカへ行ってきた。アメリカ男性の平均寿命を15年上回る89歳で亡くなった父は、“天寿をまっとうする”という言葉の通りの人生を送ったと思う。私ごとで恐縮だが、今回は少し父のことを書きたい。
親の背中をみて育つ
私の父は1913年に生まれた。カリフォルニア工科大学に入学したが、大恐慌のあとの不況で生活に困窮し、大学中退を余儀なくされて海軍に入隊した。海軍にいる間に結婚して戦後は機械メーカーで働いていたが、その後、石油の採掘現場で使われるオイルポンプのエンジン修理を手がける会社をカリフォルニアで興した。私はまだ小学生で、オレンジカウンティ一帯で石油が豊富に出ていた頃である。
私の記憶の中で父はいつも働いていた。エンジン修理の連絡が入れば日曜日でも道具を持って出かけていく。父に遊んでもらいたい私や弟たちが、なぜクリスマスイブにまで仕事をするのかとたずねると父はこう答えた。「カスタマー・イズ・キング」。日本語だったら、“お客様は神様”となるのであろうか。何よりも顧客を大切にすることが父のモットーであった。当時父がしていたこと、また私たちに教えようとしたその意図を、幼い私がはっきり理解していたとは思えない。日本に来て自分で事業を始めて、「会社の目的は顧客の役に立つことであり、役に立つことをしていれば、おのずと利益はついてくる」ということを、私はあらためて実感したといえる。“子は親の背中をみて育つ”という。私にとっては、その後の大学や大学院で学んだ経済学よりも、今こうしてビジネスをしながら何よりも役に立っているのは、まさに父の背中が教えてくれたことだったと思う。
父は、機械の修理というブルーカラーの仕事を誇りと責任を持って行っていたが、私たち息子には自分が途中であきらめなければならなかった大学へいくことを奨励し、いつも「大学で数学を勉強しなさい」と口癖のように言う教育ママならぬ教育パパでもあった。しかし私は父のその言葉自体にはあまり動かされなかったように思う。高校時代、私はスポーツに明け暮れ、大学時代はキャンプに行って、川の水を飲み釣った魚を食べるというアウトドア生活ですっかり山の魅力にとりつかれ、将来はレンジャー、森林警備隊員になりたいと思っていた。そんな私の計画について父は批判めいたことは一言も言わなかった。
地元の短期大学2年の夏、私は実際にインターンとして一夏を山で過ごした。山での仕事はおもに落雷による森林火災の消火作業であり、生活を共にしたレンジャーたちの楽しみといえば地元のバーで酒を飲むことだけだった。その現実を目にして私のあこがれは消えた。そして私はカリフォルニア州立大学に編入して数学を専攻したのである。卒業後、全米航空宇宙局を得意先とする宇宙関連産業の会社に就職し、会社が大学院の学費をだしてくれたので計量経済学を勉強した。そこで私は東洋思想と出会った。経済学の教授からマルクスやアダム・スミスといった西洋の経済だけでなく、東洋の思想も学ぶべきだといって「論語」を読むことを薦められたのである。レールがひかれていたかのように、その後日本に来て会社を作り事業を始め今日に至っている。私が日本に来た頃にはすでに石油が枯渇して父の会社は解散していた。父と仕事の話をしたことはあまりなく、自分が嫌なことは人に押し付けてはいけないとか、何事に対してもモデレート(中庸)であることを心がけろ、といった助言をたまに受けた記憶があるだけである。それは異国での私の焦りを見透かしたような冷静な言葉だったように思う。
父のことを思うとき、父が私に教えてくれた大切な事柄に対する感謝の気持ちでいっぱいになる。そして人間の心の成長にとって、父親の言葉そのものではなく、その行動が子供にどんな影響をもたらすかを改めて強く感じるのだ。家庭でも会社でも、子供たちや部下は親や上司の言葉ではなく、背中を見て動くのだろうと思う。手本となる背中がなければ、いくら経済学や法学を学び、コンピュータや英語をマスターしても人としてどうあるべきかを身につけることは難しいだろう。
父は母が死んでからは一人でトレーラーハウスに住み、きわめて簡素な生活を送った。静かだがユーモアに富み、私がコンピュータでインターネットの環境を設定してあげてからは自分が興味を持った記事やジョークのメールを頻繁に送ってくれた。延命治療などはしないようにという希望通り、最期の入院もごく短期間で苦しまなかったことは幸いだった。私が一抹の寂しさを覚えるのは、父からそんなメールをもう受け取ることはないということである。