環境問題の話になった時、蒸し暑い日本の夏に背広は不向きだとして「作務衣」を着ている私のようなガイジンが、たとえばファストフードがいかに環境にも健康にも有害であるかを力説すると、特に保守派を自認する人の中には私がビジネスマンとしては変わっていて、あたかも何かの運動にかかわっているかのように思う人がいる。しかし環境問題とは拡大する砂漠や破壊される熱帯雨林などについて特別な活動家だけが考えるべき問題ではない。それは現代の日本の問題であり、あなたや私の住む町、隣近所の問題なのだということを忘れてはならない。
「幸福」を環境破壊に問う
毎日の生活が土地や空気、水に完全に依存しているということを私たちは簡単に忘れてしまう。エネルギーについても同じである。1970年代、オイルショックの頃話題となったエネルギー危機は、近年、政府から聞かれることはなく、省エネという言葉は電力会社か家電製品の宣伝文句でうたわれるだけになった。石油がいつ枯渇するのか、石油に代わるエネルギーにはどのようなものがあるのかを、私たちは30年前よりももっと真剣に問わなければいけない。なぜなら石油発掘技術が以前よりも格段に進歩し、石油の枯渇はより早く進んでいるためである。
ロイヤル・ダッチ・シェル社は、今年になって3回も同社が保有する原油・天然ガスの確認埋蔵量を下方修正し、埋蔵量は43億5千万バレルも減少して150億バレルになった。これによって会長を含め幹部四人が辞任に追い込まれた。もはやどんな技術を使っても現在の石油生産量を維持することはできないのだ。一方で需要を見ると、世界人口の増加に加え、たとえば中国の自動車販売台数は毎年平均20%近く増加している。排出される二酸化炭素によってますます地球温暖化が進むことは目に見えている。
昨年秋、シェル社の政策決定責任者だったピーター・シュワルツがペンタゴンの依頼で22ページにわたる地球温暖化に関する報告書を作成したと英オブザーバー紙が報道した。そこには、2020年にはヨーロッパの主要都市は海面下に没し、イギリスは“シベリア化”し、世界は干ばつ、飢餓、暴動に呑み込まれ、欠乏する食料や水の確保のために各国は核の脅威を振りかざすようになり、世界は無政府状態と騒乱に陥るとまで書かれている。
環境に関しては、最近、もう一冊の非常に興味深い本を読んだ。ジェームス・グスタフ・スペスが書いた『Red Sky at Morning』である。スペスはカーター大統領時代に環境問題諮問委員会の委員長を務め、現在はエール大学森林環境学部長である。その著書でスペスは、地球温暖化への取り組みはただ単に空気や水をきれいにするためにわずかな代価を払えばよいというものではなく、全世界の経済をオーバーホールする以上のことが必要だ、と書いている。
人間の幸福よりも経済そのものが目的となっている現状を各国政府が改め、たとえば税制を変えるだけでも環境汚染は劇的に減少するだろう。すでにフィンランドなどで導入されている、二酸化炭素の排出削減を目指してガソリンなどの使用量に応じて課税される“炭素税”を日本も導入すべきだし、また自動車が生活の足となっている地方は別として、東京など公共の交通手段が充実している大都市では駐車違反を徹底的に取り締まり、かつ駐車場に高い税金をかければ、不要な自動車の利用は大幅に減るだろう。
しかし考えるべきは、個々人の行動を変える試みである。エネルギーを効率的に使うだけでなく、少ししか使わないようにするのである。蓄えておくことのできない電力をピーク需要に対応できるよう供給力を整備している現状を改善するには、電力利用が集中しないような仕組みづくりをすればよい。そして天と地、魚、鳥、家畜、他のすべてのものを人間が支配するようにと神が創造したというユダヤ・キリスト教的な思考から抜け出すことだ。人間がその支配に失敗していることは今の地球を見れば明白である。
今私たちに必要なのは、人間も地球の一部だという道教的な教えだと思う。私たちが環境に合わせた生き方に戻るのだ。昔の私のテニスコーチは、室内で電気をつけてテニスをすることに反対だった。テニスは外の自然の光の下でするものだというのが彼の考えだった。雨の日や夜は、休養や読書といった別のことをしなさいというサインなのだからと彼は私に言った。
産業革命以降、私たちは幸福のためより、経済のために生きるようになった。決まった時間に働き、最大量の生産をし、大量生産できる能力にあわせて物を消費するよう、広告や宣伝が使われた。お金や物をたくさん集めることがあたかも人間の価値を上げるように私たちは思い込まされてきた。エネルギーや環境問題は、私たちに真の幸福とは何かを考えさせるすばらしい機会でもある。