OWで私は何度か環境問題を取り上げているが、その理由の一つは世界の石油生産がピークに達したという報告を読んだからである。これは石油がすぐになくなるという意味ではなく、石油生産量はピークに達したが、技術進歩や投資によって現在の石油生産レベルはしばらく維持されるが、その後生産量は減少に向かい、同時に石油価格が値上がりを始めるというものである。
経済成長より生命の存続
石油の埋蔵量が残っていても、噴出が弱くなると石油採掘を続けるためには技術的な問題がでてくる。このためピークを過ぎると、採掘にはより多くのコストがかかるようになる。現在私たちが消費している石油の多くは1960年代までに発見された油田のもので、低コストの石油である。油田の採掘量が40年くらいでピークに達するということは、そのあと石油価格がどうなるか、だれでも予測はできるはずだ。日本を含む先進国の社会体制が石油に依存している今、これは社会を不安定にする大きな影響力となることは間違いない。
地質学者の中には、過去にも石油の採掘量がピークにあると発言した人々がいるが、そのたびに一笑されるか、無視されてきた。私たちは天然資源がいつの日か枯渇することを頭の片隅では知りつつ、文明生活を続けることをずっと願ってきた。私は社会が危機的状況に直面する前に、化石燃料の使用を大幅に削減する体制へ移行する、つまり化石燃料を使わない風や太陽光といった新エネルギーへの投資を増やす一方で、エネルギー消費を抑制していかなければならないと考える。
ところが最近気になる動きは、石油の枯渇と地球温暖化を理由に原子力発電を推進する声が再び高まっていることだ。原発といえば旧ソ連のチェルノブイリ原発事故を思い出すが、日本の原発推進派は、チェルノブイリは管理体制の不備、放射性物質を閉じこめる機能の欠陥、運転規則違反や運転員の知識不足等々が原因で、日本では起こらないとさえ言う。
イギリスでは、生物物理学者のジェームス・ラブロック氏が原発推進の記事をインディペンデント紙に掲載して書いて物議をかもした。ラブロック氏は“地球はそれ自体が一つの巨大な生命体としての仕組みを持っており、私たち人類もまた、その人智を越えた複雑、精緻な生命の仕組みの一部分として生かされている”という「ガイア理論」の創始者である。そのラブロック氏が、化石燃料がもたらす気候変動による死者の数のほうが、原発事故による犠牲者よりも圧倒的に多くなるため、核エネルギーの利用を提唱しているのだ。
たしかにそうかもしれない。イギリスには湖水地方の隣にセラフィールド核燃料再処理施設がある。日本の核燃料の再処理も行っていたこの工場は、放射性廃液をアイルランド海に放出し、過去に起こした放射能漏れ事故で周辺住民の間でガンや白血病が多発している。しかしその犠牲者数も、気候変動による死亡者と比べたら隠すことができる程度の被害にすぎない。チェルノブイリはソ連の管理が悪かったのだし、平成11年に東海村で起きたJCOの事故も一民間企業のミスとして片付けられるかもしれない。
それでも、生物物理学者でも科学者でもない私は、ラブロック氏は間違っていると思う。気候変動をもたらさない選択肢はラブロック氏の推進する核エネルギーだけではないうえに、核エネルギーは簡単に代替といえるしろものでは決してない。原子力発電所の建築にかかるばく大な費用、核拡散の問題、そして核廃棄物等、どれをとっても簡単に選べるオプションなどではないのだ。さらに原発は直接には気候変動の原因となる温室ガスを排出しなくても、間接的にはウランの採掘において温室ガスを排出するし、加工や輸送における放射能の被害や事故の危険もみのがせない。
私がもっとも納得がいかないのは、日本の増えるエネルギー需要を満たすために、それにあわせて供給を増やさなければいけないという前提である。ここには現在の無駄を見直すという視点が欠落している。アメリカのアースポリシー研究所所長レスター・ブラウン氏は、2003年から2010年までに「アメリカで走る車両のすべてをトヨタのプリウスと同じ燃費レベルにすべき」という規制を作れば、アメリカのガソリン消費量は半分に減るというレポートを書いている。これは単なる一例だが、ようはエネルギーの効率的利用による持続可能な経済への方向転換という、もう一つの選択肢が私たちにはあるということだ。
枯渇する化石燃料と気候変動の解決策は原子力発電では決してない。原発にばく大なお金を投資するなら、そのお金を風や太陽光のような地球を痛めないエネルギー開発にまわしつつ、使用するエネルギーを抑制する。それによってガイアも私たちも経済成長ではなく「生命」の存続を選択することになるのだと思う。