米商務省の調査で、2003年に米国民3590万人が貧困層に区分されているということを先日とりあげた。米政府の定義によると4人家族で年収が18810ドル(約200万円)に満たないと貧困層に分類される。これに対して、労働者世帯を対象に年収の上限を2倍に引き上げた調査、“働く貧しい家族プロジェクト”によると、2002年に約3900万人がこの範囲(例えば4人家族で年収400万円以下)に属していたという。これはアメリカで提供されている雇用の多くが、きわめて安い賃金しか労働者に対して払っていないことを如実に表している。
共存共栄の社会を築け
3900万人のうち2000万人は子供たちだ。子供はその国の将来の労働力である。歴史をみれば貧しい家庭で生まれ立派に成長した人はたくさんいる。しかしそれは、例えば戦後の日本がそうであったように、多くの国民がより高い生活水準をめざして努力した時代のことで、今日のアメリカの状況はそれとはあまりにも異なる。貧困によって子供の教育がないがしろにされれば、その子供の将来的な経済能力も危機にさらされることを意味する。
アメリカの最低賃金(時給)は5.15ドル(約566円)で、それでは仕事をかけもちしても貧困線を超える年収を手にすることは不可能である。同様に、日本の最低賃金は東京が時給708円で、これでは毎日8時間、1ケ月24日間働いても月収14万円に満たず、年収160万円ほどにしかならない。日本でも実力主義、能力主義が強調され、努力した人はそれに見合った報酬を手にすることは当然であり、努力しない人が最低賃金の職につかざるをえないのは自己責任だというような発言が強者からなされることがある。しかし努力以外の要因があまりにも大きく、一般的に高度な、高給をとれる仕事につくためには高い教育が必要とされることが多く、それには本人以外に、親の経済力が大きなポイントとなるのだ。貧困線以下の生活の中で高度な教育や訓練を受けることの難しさを考えると、初めから公平な競争であるとはいえないのが現実だ。
私は高い収入を得ることが素晴らしいことだと奨励しているのではない。お金はいくらあれば満足するというものではなく、手にすればもっと欲しくなるし、たとえ年収が1千万円でも、まわりが1億円なら自分が貧しく感じるものだからだ。しかし自給自足の時代と違い、全てが分業化され、貨幣経済となった現代では生きていくために働いて金を稼がなければならない。だからこそ、最低賃金は生活していけるだけの金額に設定されなければいけない。
米ビジネス誌が発表した今年の世界の億万長者ランキングを見れば、10億ドル(1100億円)以上の資産家は昨年の262人から313人に増加した。アメリカ最大の雇用者だが低賃金で知られるウォルマートの創始者サム・ウォルトンの5人の相続人は、資産180億ドルでランキングの4位から8位を占めた。雇用が海外に流出し、賃金が下がり、貧困が拡大するなかで一部の金持ちだけがますます富を増やしている。本人の努力に関係のない遺産の授受には、大きく税金をかける政策をとることの必要性を私はあらためて強く感じる。
貧困の対象を世界に向けると、世界銀行は貧困の定義を1人当たり年間所得370ドル以下としている。少し古いデータになるが1990年には約11億1600万人がこれに該当した。さらに「極度の貧困」は年間所得275ドル以下で、6億3300万人だった。こうなると教育どころか食べ物もこと欠き、健康な人生を送ることすらできない。子供たちの人生に選択の余地はほとんどないのだ。
2000年、国連は2015年までに世界の貧困者の数を半減させるという目標を設定したが、2003年時点で大幅に遅れているという。目標では先進国は国家所得の0.7%を途上国へ支援するとしていたが、2002年にOECD諸国の行った支援は0.23%に過ぎなかった。こうして国単位だけでなく世界全体においても貧富の格差はますます拡大している。
世界の格差をなくすために先進国がすべきことは、途上国へ技術供与したり、またさまざまな特許へアクセスをできるようにすることが挙げられる。新薬の開発や研究、伝染病の新しい治療薬などへの障壁をなくす、環境汚染を抑え石油や石炭を使わずにすむクリーンなエネルギーを促進する技術を提供することもできるだろう。そしてもっとも大切なことは途上国の国民が自立できるための教育や訓練を提供することだ。国家でも地球規模でも基本は同じである。
グローバリゼーションを標榜する多国籍企業や政治家が、階級社会を作り、国家や世界を分断して安定がはかれると思うならそれは大間違いだ。多くの人を貧困に追いやり、自然を破壊し、自己の利益のみを追求したうえに築かれた文明は虚構であり、遠からず崩壊する。私たちが築くべき社会、それは現代に生きる人だけでなく、未来を犠牲にすることのない共存共栄の思想に基づくものでなければいけないのである。