No.663 持続可能な都市築く一歩に

 われわれは文明社会に生きている。厳密には文明の終わりの始まりにあるといったほうがよいかもしれない。文明というとき、それはたいてい未開な社会と対比して使われ、非人道的で野蛮な社会よりも文明社会の文化や価値観は優れているというものであり、だから文明人は野蛮人を征服してもよい、またはすべきだというのがこれまでの考え方でもあった。

持続可能な都市築く一歩に

 文明を英語で“Civilization”といい、ラテン語のCivis、都市を語源としている。ローマ時代には都市を作る人が文明人とされたからであろう。初期の文明にはメソポタミア、エジプト、インダス、黄河があげられるが、その優れたものとされる文明は、人間の技術的、物質的な面において特に秀でてさまざまな利便な機器を生み出し、それによって生活を便利に、楽なものにしてきた。そして豊かな道具文明に共通していることは、必ず滅亡に至っているということである。

 われわれの工業文明も、これまでの文明と同じように今終わりの始まりにある。人類の歴史をふりかえればこれは不自然なことではない。過去において消滅した文明は、富を蓄積し、強大な軍事力をもち、領土拡大が頂点に達してからしばらくして崩壊が始まっている。その背景には井戸の枯渇や木を切り過ぎるなど、資源を使い果たしたり、または生態系を破壊したことも要因となった。現代の化石燃料を基盤とする工業文明だけが例外になることなどあり得ない。むしろ地球から多くの資源を吸い取り、それを使用する過程で環境を汚染し、大量の廃棄物を作り出していることを考えればこれが永遠に続くほうがおかしい。

 われわれの文明の特徴は人間の手ではなく、石油をエネルギーとして機械によって形作られていることである。高層ビル、宇宙ロケットや飛行機、先進技術はすべて石油なしには機能しない。そしてその進歩の陰で置き去りにされてきたのは、自然の美しさや職人の技によって作られる、ゆっくり時間をかけて醸成されるもの、または各地方に昔から根付いていた伝統文化などであった。

 新年早々、悲観的なことを言うつもりはない。人類にとってむしろこれは良いことだと私は思っている。大量生産、大量消費、大量廃棄を続け、競争は不可欠で適者生存は当然だとする、競争や戦争の勝者による利益がこの偉大な文明を築き上げたのであり、そんなシステムを固持しようとすることはどう考えても近視眼的で、原始的ですらある。

 もちろん、このシステムから力やお金を得ている少数の既得権益者は守るためにより強い力を行使し、それによって激しい戦いは起きるかもしれない。しかしその後には、力を供給してきたエネルギー資源の枯渇か、人類の生存が困難になるほど破壊された地球が残されるだけでは、その抵抗自体むなしいものとなるだろう。

 では、われわれはこれからどのような生き方を目指すべきか。アイデアはいくつもある。エネルギー資源を節約して使い、自分の住むコミュニティーでの活動を活発にする。野菜などの食べ物を育て、身近なものは自分で道具を使って作れるような訓練、つまり工業文明社会とは違う社会で生きるためのノウハウを習得する。

 これは目新しい考えではない。有機農業、グローバルとは正反対のローカルな暮らし、ペースダウンしたゆっくりとした生活、多様性を大切にしたエコロジカルな持続可能な生き方など、少なからぬ数の人々が何年来も言い続けてきたことである。機械化され、時間に追われ、競争が良いこととされるグローバル社会では、大量生産による単一文化を企業がコントロールしている。工業文明とは、エコロジー的に持続不可能な社会の姿なのだ。

 産業革命の最終段階にあたる19世紀末、北米でポピュリストと呼ばれる人たちが、政治的な既成権力への反発、そして経済的には東部の巨大資本からの独立性を保護しようと運動を起こした。最終的にこの運動が米国で大きな勢力となることはなかったが、この歴史は人間が繰り返し同じような希望を持ち、同じ道をたどりながらわずかでも進歩している証しではないかと思う。

 工業文明の終わりに、そして来るべき地球の変化に人類は適応することができることを証明しようではないか。変化を恐れることなく、自信とユーモアと感謝の気持ちを持って日々暮らしていこう。複雑になりすぎた社会をもっとシンプルに、大きくなりすぎた人間のエゴを持続可能な大きさに戻していこう。2005年、われわれは石油資源を使わなくても可能な活動やプロセスへ転換し、持続可能な都市、Civisを築く一歩を踏み出すべきである。