昨年コメンテーターとして出演したテレビ番組が、急成長する中国の需要増のために日本で鉄が不足しているという話題についてとりあげた。常日ごろから主張しているように、地球の資源は有限であり、地球上のすべての国が日本や米国のような資源の使い方をするようになれば、資源はあっという間に枯渇するか、またはそれによって環境破壊が進み人類の生存が危機にさらされると私は思っている。
社会衰退招く「経済成長」
発展による恩恵を受けながら、途上国が日本のようになろうとすることを問題視することはきわめて利己的であり、むしろ日本を含む先進国がすべきことは、地球上の多くの国と比べて突出しているという問題を改める必要性がでてきたといえるだろう。
第二次大戦後、日本は奇跡とも呼ばれる経済成長をとげ、世界の中でも最も富める国の一つとなった。不況とはいえ、社会全体をみてもまた実際に数字でも日本国民は地球上で圧倒的に豊かな暮らしをしていることには変わりはない。それにもかかわらず日本政府や財界が目指しているのは常に「成長」で、さらなる成長なくしては国が滅亡するかのような論調すらなされる。戦後の日本は復興と経済成長を目標に社会を築いてきた。しかし目標は変えるべきだし、変えなければいけない。また国の豊かさを測る指標も同様に定期的に見直しが必要である。
豊かな生活水準を維持するために経済成長が必要不可欠だと主張する時、指標としてGDP(国内総生産)が使われる。これは国内で産みだされた付加価値の総額で、その伸び率が経済成長率だとされるためだ。しかし必ずしもすべての成長がよいわけではない。異常な肥満や悪性腫瘍が増殖すれば死に至るように、まちがった方向への経済成長は悲惨な結果をもたらす。
GDPは1年間に売買された製品やサービスの総価値によって考慮される。しかしそれだけでは市場で取り交わされたそれらが、社会にとって本当によいものであったかという視点が欠落している。これに対してエコノミストは、人々がお金を払ってでもそれを欲しいというのなら、その要求は満たされるべきだ、それが市場経済だ、と言うだろう。だが残念ながらそうではない。
GDPには、国民が受けた利益だけではなく支払わなければならない経費も含まれる。良いものと悪いものの混合なのである。例えば交通事故に遭ってかかる費用、石油タンカーが座礁した事故処理にかかる費用、空気汚染でぜんそくになる、訴訟で弁護士にかかる等々、事故や災害がもたらすあらゆる取引が増えれば増えるほど、その国家のGDPは増加する。このような数字の増加が、果たして国民の安寧の度合い、幸福の指標になるかといえば、決してならないのである。
GDPの増加は、実際には国民の大多数をより不幸にしているという調査結果もでている。家庭で調理された食事を家族で食べると、食材や燃料分だけがGDPに加わるが、忙しいという理由で外食をすればたとえ体によくないファーストフードでもGDPにはプラスになるからだ。天然資源の利用についても同様である。GDPの計算では、たとえ土壌の浸食を早め、また身体に害を及ぼすことになっても、石油から作られた化学肥料や農薬を大量に使って生産高を増やすことは経済成長となる。温暖化を進めるという問題があっても、木材を過剰に伐採して売る方が短期的には国を富ますのである。先進国ではこのようにして過去二十年間にGDPを増やしつづけてきた。
米国で、国民の福祉という側面から調査を行った機関がある。八五年以降毎年、失業や平均賃金、健康保険加入率や殺人、貧困者への食料補助などについての統計を編さんし発表しているこの機関によれば、それらすべての項目が年々悪化しているという結果になっている。より多くの米国人が、経済が成長する社会においてその生活の質を劣化させているということだ。
日本に同様の調査がなされているかどうかはわからないが、失業率や自殺率の増加、さらには児童の体力・学力が低下しているという現状を考えても、経済成長と社会の安寧は比例していないことだけは確かである。
ではなぜ経済が成長するプロセスで、改善されるべき人間の安寧がそこなわれるのだろうか。その理由の一つは、エコノミストのいう「市場経済」だからだ。何を増やすか、成長させるかを個々の企業が目標を定めている。そしてその企業の目標は利潤であって、国民の幸福や安寧ではないからだ。外国の貧困や飢餓どころか、自国の国民を思いやる気持ちよりも利潤追求を目標とする企業が権力を握る先進国で、経済成長によって社会そのものが衰退に向かうということはあまりにも皮肉なことである。