民主主義国家における社会の仕組みや制度は、主権を持つ国民のために作られていると思いがちだが、実はそうではないことが多い。制度を主に決める立場にいる少数の人々は、権力だけでなく格段に多くの富を保有しており、そういう人々が作る仕組みの特徴は、大多数の人々を犠牲にしても、持てる者に有利になるようになっていることだ。
無知な国民に対する隠謀
例えば、富を持つ人が、いかに税金を払わず子供に財産を継承するかに腐心しているか。節税会社を作る、国家財政がどんなに赤字でも相続税の最高税率を下げるなど、堤家が特別なのではないだろう。権力を持ったお金持ちが行ってきたことの多くは、国家を健全にするどころか不安定にすることのほうが多く、また経済や金融制度を複雑にみせかけることで、実態を一般国民に知らせないようにしている場合もある。例えば、銀行の役割について私たちはどれほど知っているだろうか。
銀行は企業や個人からお金を預かり、それを貸して利息をとる。しかし実際は、自分が持っていないものを貸し出して、利益(利息)を受け取っているのである。仕組みを簡単に説明すると、銀行は預金者からお金を預かり、払い戻しを想定して日本銀行に一定の準備金を預ける。準備率を1%とすると(実際は1.3%)、100万円預かると1万円を日銀に預け、残りの99万円は貸し付けることができる。貸し付けられた99万円が再び銀行口座に入れば銀行はまたその1%を預け、残りを貸し出す。こうして預かったお金は百万円でも、これを繰り返すと準備金を積んで9900万円まで貸し出すことができる。これが専門用語で「信用創造」とよばれるメカニズムであり、日本に出回っているお金の約99.9%は何もないところから銀行が作ったお金だということになる。
銀行がお金を作ることをやめたら、経済の血液ともいわれるお金の流れが滞ってしまうとの反論があるだろう。しかしそれは政府日銀がお金を作ることで解決できる。経済状況に応じて、経済が必要とする新しいお金を日銀が刷り、それで政府の支出をカバーしていくのだ。例えば国家予算は82兆円だが36兆円は金融機関などからの借金である。その利子を払うのは国民である。実際、82兆円の国家歳出のうち約18兆円は過去の借金の利払いだ。だから政府予算が30兆円足りなければ、日銀が30兆円を印刷して政府に渡せばよい。これで政府は金融機関から借金をする必要がなくなり、数年間これを続ければ日本の国家債務は消滅し、それ以降は毎年経済に必要な分として日銀が決めて刷る新札の分だけ税金を減らすこともできる。
これは実現不可能な話ではない。われわれが使うお金のほとんどを銀行が無から作りだし、実際にないもので利息を得ることを許し続けるほうが、銀行と政府が無知な国民に対しておこなう陰謀にも等しいことなのだ。
この話を米国の経済学者に提案したら、政府が借金ではなく自分でお金を作った例は実際に1861年-65年、南北戦争で発行された「グリーンバック」があるという。しかしこのような議論が日本はおろか米国の主流金融アナリストなどになされることはない。
政府が新たにお金を創造をすることと、銀行がお金を作って貸し出すことの大きな違いは、一方には利子は生じないが、民間の銀行が作るお金には「利子」という大きな利益がもたらされるという事実だ。この大きな特権を銀行からとりあげるには、準備率を100%にすればよい。そうなれば預かったお金しか貸し出せない。これでは銀行が成り立たないというなら、代わりに安全に預かるという名目で銀行は預金者から保管料をとり、またはどうしても貸し出したければ、1カ月は下ろせない預金を売り、この預金は保管料をとらず、その分を1カ月貸し出して利子を取る。同じように、1年、2年下ろせない預金を売り、それを貸し出して利子を取ればよい。
実際にあるお金だけがやりとりされれば、銀行は極めて正直なビジネスをすることになり、不良債権もなくなるだろう。また実際には存在しないお金を貸し出して利子が生まれるからこそ、いつも経済は利子の分だけ成長しないといけないという成長神話がはびこるのだ。
金融制度が一般の人々に分かりにくいようにしているのは、実際にはないお金を貸し出して金利を得るという特権を銀行に与え続けるためかもしれないが、特権を与えておきながら、銀行が破たんしたら自己責任という名のもと責任は預金者にあるとは、あまりにもひどい話だ。銀行への特権をなくして「正直な政府」が矛盾語法ではないことを日本が証明すれば、世界の資本主義の流れも変わるかもしれない。