日米経済摩擦が問題となっていた10年ほど前、テレビの討論番組で知り合ったのがニューヨーク市立大学の霍見芳浩教授である。私が日本、霍見氏は米国と、互いに反対の国を基盤として活動をしているが、今でも電子メールを使って有益な意見交換をさせていただいている。
国民のための政策へ行動を
霍見氏がハーバード大学で講義していた30年ほど前、教え子の一人がブッシュ大統領だった。ブッシュはエール大学を卒業し、その後ハーバード大学経営学大学院でMBA(経営学修士)を取得した。歴代の米国大統領のなかで、ブッシュはMBAを持つ初めての大統領なのである。
霍見氏が回想する当時のブッシュ大統領は、自分たちが好きなような経営ができるよう、道徳や社会の責任というものを一切切り離して考え、ルーズベルトを社会主義者と呼び、社会保障制度にも失業保険にもそれから証券取引所の改革などのニューディール政策にも反対する学生だったという。道徳的な制約がなければ資本主義は腐敗するという考え方を受け入れない少数派の一人が、米国の大統領となった。
いま米国では1%の富裕層に富が集中し、一方で貧しい家庭が増加している。富裕層の中心を占める米国のエリートの多くがMBAホールダーであり、彼らは自分たちに巨額の報酬をお手盛りするために従業員を解雇し、仕事を低賃金国に移転している。彼らが実践している経営学の基本は「企業の目標はできる限り多くの利益を得ること」であり、さらにできるだけ短期間に行うほうがなおよいというものだ。
彼らの合言葉は“貪欲は善いこと”で、これはアダム・スミスが「国富論」に書いた、“人々が私利私欲をもとに自己の利益にとって最善だと思われることを行うとき、社会がもっとも効率的に機能する”という考え方からきている。しかし真実は、経営者がさく取を正当化するために教育者やエコノミストがこの言葉を誤用して自由放任主義の市場経済を推し進めているにすぎない。
アダム・スミスは経済学だけでなく、グラスゴー大学で道徳哲学を学んだ哲学者でもあった。社会や他者に害を及ぼすと知りつつ、つまり道徳的な規律なしに企業が金もうけを追求してよいとは「国富論」に一言も書いてない。むしろ意図したことは、人間は他の生き物と違い、仲間の助けをほとんどいつも必要としているということ、従って自分が必要としている他人の好意を互いに受け取りあうことで社会全体の利益が促進する、ということなのである。
一般の社員は使い捨ての経費として扱うように教えられ、企業は株主のためにのみ存在するという神話を批判することは許されない。地域社会やその住民に貢献するために企業をおこし、経営をするリーダーを育てる代わりに、会計(会計を操る)、経理(お金を操る)、マーケティング(顧客や見込み客をいかに操るか)、人事(社員をいかに操るか)等々、科学を装っていかに上手くものごとをごまかして早く多く利益を出すかをビジネススクールは教えている。最近、日本の経済紙をにぎわしているフィナンシャルゲームやライバル企業の敵対的買収も、金もうけと株価の操作が企業の唯一の目的だというそのテキスト通りの行動だといえるだろう。
米国政府は、今のままでは社会保障は破たんすると国民を脅して社会保障制度を民営化させようとしているが、これは国民の安寧のためなどではなく、学生時代から社会保障に反対する思想を持っていたブッシュがそれを実行に移しているに過ぎない。そしてあらゆる福祉に反対するブッシュは、貧困層の子供たちのための給食プログラム予算も大幅に削減した。富裕層への減税によって、今米国では最ももうかっている企業200社のうち80社以上が連邦税、州税を1セントも払っていないのが現実だ。
これらすべてビジネススクールが元凶なわけではない。歴史を振り返れば大昔からほとんどの西洋の支配者は、金持ちや権力者のために貧困者や弱者を犠牲にしてきた。自分のキャリアや命の危険を冒しても弱者のために活動した支配者は、アテネのソロン、ローマのジュリアス・シーザー、イエス・キリスト、米国のトーマス・ジェファソンやフランクリン・ルーズベルト、ガンジーなどごく少数の例外しか私は知らない。
米国同様日本の小泉政権も一般国民を犠牲にする政策を次々と考案している。ジェファソンのような政治家を待ち望む手もあるが、まずは、国民の大多数であるさく取される側の人々が一緒になって、政府が金持ちや権力者の利益のためよりも国民のための政策をとるよう働きかけるしかない。