私の本業は企業経営であり、当然ながらそのために環境や社会問題と同じくらい多くの時間を割いてビジネスについて考えている。会社の業績を測る手法はいろいろあるが、損益計算書が財務的に重要な指標とされている。
資本主義崩壊招く「株主重視」
会社の一定期間の営業結果を要約した損益計算書では、収支決算である税引き後の純利益がビジネスにおけるあらゆるスコアの中で最も重要なものだとされている。私は、事業とは顧客に役に立つサービスや製品を提供し、社員には満足する職を提供しようとする真剣な努力をすることだと信じている。もちろんいくら社会貢献をしていても倒産しては意味がないため、利益を出し続ける必要はある。また不景気に備えて収入を超えた支出をカバーするための準備金や、事業を維持するための投資を行うためにも利益が必要だ。したがって素晴らしい会社とは世の中に貢献しつつ財務面で成功している会社となるであろう。
損益計算書の科目は収入、支出、利益、税金、純利益で、収入から支出を引いたものが利益で、それに基づいて税金を払い、利益から税金を引いたものが純利益となる。私が納得できないのは、この純利益がビジネスにとって最も重要なスコアだといわれることだ。企業の継続に必要以上の純利益を上げてもうかるのは、その会社の経営者や株主である。
最近よくいわれる会社の目的は、株主をもうけさせるためという考え方に私は反対である。以前テレビでその発言をしたら「株主軽視」は未上場企業だから言えることだと批判を受けたが、しかし少し前の日本では上場企業でも私のような考え方は異質ではなかった。特殊かもしれないが私の会社を例にとると、設立に巨額の資金は必要なかった。資金繰りは収入と銀行からの借り入れで行う資本集約型ではなく労働集約型の会社で、製品を売り、人手によるサービスを顧客に提供するため研究開発費を必要としない。社員が顧客企業を直接訪問するため巨額の広告宣伝費も使わず、企業買収で事業拡大もしないので買収資金を調達する必要もない。
高額な研究開発費、設備投資、そして広告宣伝や企業買収のために収入や借り入れ以上の資金集めのために外部の投資家(株主)をひきつけないといけないという理由は理解できる。しかしそういう企業は、必要からではなく、それを選択している。私が労働集約型の事業を選んだように、資本集約型のビジネスを選んでいるのである。
収入と借り入れでやりくりし、株主を喜ばせる必要のない会社にとって純利益を最大化することは最重要事項ではない。私の会社で短期的な成功のために必要なのは、社員が誠実に熱心に製品を売ることであり、また長期的な繁栄のためには、いつも社員が正直に誠実に顧客に役に立つ製品を販売し、顧客が払った代価以上の価値を得られるようなサポートを提供し続けることである。信用がすべての会社の成功を左右するのは社員であり、その社員に最も報いることが結局は企業の業績を左右すると私は信じている。そしてこれは株の公開非公開にかかわらず真理であると思う。
利益は収入から支出を引いたものだが、支出には社員の給与やボーナスが含まれる。株主を富ませるためには、利益から税金を引いた純利益を増やす必要があり、そのために支出を削減、つまり給与カットやリストラが行われる。これは株主のために社員を犠牲にすることであり、会社を維持・成長させるために働き生活の糧を得ている人をさく取するにも等しい。
モラル的に正しいかどうかは別として、これは結局は会社のためにならないと私は信じている。なぜなら会社を成功させ繁栄させるためには、すべての社員が熱心に誠実に働くことが求められるからだ。そして誠実で勤勉な努力を社員がしてくれるようにする唯一の方法は、すべての社員を会社が正直に公平に扱っていることを納得させることであり、株主ではなく社員を、収益の度合いと貢献度にあわせて金銭的に報いることなのだ。
従って私の会社では利益と税金を他の支出と同じように扱っている。つまり収益から、利益と税金を含めたさまざまな経費を差し引いたものをボトムライン、つまり最も大切な指標としている。なぜならこれが給与やボーナスとして社員に分配される部分であり、会社の成功と繁栄の鍵を握る最も重要なスコアだと思うからだ。
株主のためという資本主義の原理が日本の失業率の増加を招き、日本国内の経済規模を縮小させている。この悪循環を資本家は気付いていないのか、それとも気付きながらも、自分だけが短期的な富を手にするような「株主重視」を標榜しているのかは分からないが、この不調和は共産主義が崩壊したように、いつか資本主義の崩壊の原因となるであろう。