No.699 子孫の運命握る環境破壊

アスベスト製造企業と使用企業、その工場周辺においてアスベストによる肺がんや中皮腫に罹患し、死亡者が発生している。アスベスト被害が明らかになったのは1960年代であるが、政府は使用禁止措置を昨年までとらず、いまだに使用を許している。

子孫の運命握る環境破壊

アスベストは安価な天然の鉱物繊維であり、産業界にとっては極めて便利な繊維でさまざまな用途に使われてきた。しかしその繊維を肺に吸い込むと、20年から50年後にがんになる恐れがあるとして既に多くの国で使用が禁止されている。その認識があるにもかかわらず日本政府が使用を許可してきたのは、その安価な材料を使うことによって利益を得る人々のためだったとしかいいようがない。

人々の健康によいこと、つまり環境を改善するか、または少なくとも現状を維持するためにはお金がかかる。逆をいうとアスベストのように、たとえ人体に有害であろうとも安価な材料を使ったり、または特別の処理をすることなく工場などの廃水をそのまま河川や海に垂れ流すことは、企業にとって利益をもたらす。

企業の利益、すなわち少数の人々にもたらされる利益と、不特定多数の国民全般の利益のどちらを重要視するべきかという問題については、われわれ一人一人が日々直面していることでもある。交通手段から食材に至るまで、その選択肢がどちらかにとって良いものであれば、他方にとっては有害であることは少なくない。

アスベストについては、旧社会党が製造販売を原則禁止にする法律の成立を目指した際、石綿建材メーカーの労働組合の反対で、法制化を断念したという報道があった。連合も「急な規制は雇用不安を招く」と懸念し、石綿使用禁止の方針を取り下げていたというのである。しかしいくら雇用を守っても生命を奪われては元も子もなかった。

人命や環境よりも産業界の利益を優先する事例は、米国の自動車文化が顕著である。公共の交通網が完備されていない米国では自動車がなければどこにも行くことができない。特に郊外の住民は車に代わる交通手段はほとんどないと言っても過言ではないほど、米国の都市設計は自動車に依存しており、米国が石油に依存しているのはこのためである。

1930年代には路面電車が発達していたロサンゼルスでは、線路は取り外され、舗装され、電車に代わって自動車が普及するにつれて排気ガスによる空気汚染が人々の健康を徐々にむしばむようになったが、この選択をしたのは国民ではなく、米国最大の雇用者である自動車業界だった。地球の環境面からみて効率のよい、コストも低い公共の交通システムはこうして買収され、民営化され、破壊されたのである。

環境問題や持続可能な社会を築こうという動きは結局、根本的に資本主義とは相いれないものなのだ。地球環境を重視した、計画に基づく持続可能な生産と違い、規制の取り払われた貪欲な自由経済は市場主義では人工的に消費が奨励され、常に成長が求められる。環境にやさしい低コストのエネルギーシステムではなく、高コスト、高利益であることが資本家の優先事項なのである。拝金主義である資本主義によって、人類は自らが自らの首を絞める状態を作り出した。自分たちが住む地球よりも、自分たちが手にする富が重要になり、人類全体の運命よりも、自分たちの資産や富の運命のほうが大切になってしまった。

自信過剰になった人類は、自然をも征服したと思っているのかもしれない。しかし有限である地球に住む人間は自分たちも自然の一部であることを決して忘れてはならない。エンゲルスが述べたように、これまでも人類はメソポタミアで、ギリシアで、耕地を作るために森林を根こそぎ引き抜き、そのたびに繰り返し自然を支配することは征服者が他民族を支配するようにはいかないことを学んだはずだ。

進化したはずの人類が作り上げた資本主義によって支配されている現代、効率のため、利益を上げるため、有限の地球資源を採り放題にして環境を汚染することによって、今再びさまざまな脅威にさらされている。日本人の死因トップのガンの原因の一つがアスベストでないとは誰にも言い切れない。しかしそれを実証することは不可能だろうし、その問題を作った産業界がそれを認めることもないだろう。しかしアスベストの問題は不幸ながらも、環境運動家の主張に国民が耳を傾けるよいきっかけとなるのではないだろうか。

政治や財界のリーダーたちは、自分たちの決定が他人を含め自分や子供、孫の運命を握っているということを正しく理解し、他の国民と同じ汚染された空気を吸っているという事実に気付くべきだ。