内閣府に設置されている「経済財政諮問会議」は小泉首相がリーダーシップを十分発揮できるようにと作られ、日本の経済財政政策を決めている機関でもある。この会議が推進しようとしていることは「改革」で、そのスローガンは「改革なくして成長なし」というものだ。2006年度についてもデフレ脱却として名目成長率を2%以上としており、何はともあれ「成長」の達成こそが最重要課題で経済成長を神のごとく盲目的に崇拝している。
成長神話から脱皮を
地球という有限の世界でいつまでも成長が続くことはありえない。科学技術の進歩によって使うエネルギーを減らしていくことで永遠の成長が可能だという人もいるがこれは幻想である。活動に使われるエネルギー資源を少なくすることで、環境に与える影響を増やすことなく一定の活動を続けることは可能だが、それでも負荷を完全になくすことはできない。
なぜ経済が常に成長を求めるのかというと、エコノミストがよく言うのは「トリクルダウン」効果であり、成長すれば富める者がさらに富み、それによって貧しい者にも富の分け前がいくというものである。トリクルダウンとは徐々に流れ落ちるという意味で、経済が活性化されて大企業や富裕層に富が配分されれば低所得層にもそれが流れ落ち、最終的に国民全体の利益になるという考え方だ。これは政府による低所得者層への福祉増大や、公共事業による直接配分とは反対のやり方だが、富める者をさらに富ませるために日米政府が所得税の最高税率を引き下げたのもこれが根拠となっている。
しかし富が金持ちから貧乏人に流れ落ちることはないし、また豊かな国からより貧しい国へ富が流れることもない。これは過去数十年間を振り返ると明らかであり、逆に経済成長を追い求めることによって不平等はさらに大きくなっているのが現実だ。しかし日々流れる巨額の経済事件の報道は人々の心をまひさせていく。
旧聞となるが昨年12月、東京株式市場でみずほ証券が大量の誤発注を出し巨額の損失を出した。一株60万の売り注文を1円で60万株という誤入力は人間の典型的なミスである。ミスを最小限にしようと努めても完全になくすことはできず、構築するシステムが大規模で高速になればなるほど影響は大きくなる。これはスケールメリットに付随するスケールデメリットであり、規模の経済に必ずついてまわる規模の不経済の原則である。
もし誰かが誤って財布を落とせば、拾った人が正直であれば交番に届けるだろう。それによって利益を手にすることは反道徳的で反倫理的な行為だ。しかしみずほの誤入力で得た利益は合法であり、このみずほの誤発注で個人で億単位の利益を手にすることができる仕組みが今の経済システムなのである。このほとんど狂ったような拝金主義を支えるためにも経済成長は欠かせない。いまの資本主義体制において成長に疑問を呈することはタブーなのである。たとえどんなに狂っていても、多くの命を犠牲にしても、または地方のコミュニティーがそれによって崩壊の危機に直面し多様性に富んだ文化が失われても、もはや経済成長は原理主義となり、成長を批判する人は非難の対象にされてしまうのが現実なのだ。
しかし地球は限界にきている。そろそろ成長中毒から抜け出さなければ減耗する資源をめぐる争いが悪化することは目に見えている。なぜならいくら成長しても、先進国のビジネスエリートたちが決して満足することはないからだ。成長を目標とすることは、最終的に社会を機能不全にし、地球において人々が共存していく可能性をより小さくすることになる。成長は物質的な豊かさを追求することである。しかし所有物はいくら増えてもこれでよいということにはならない。エコノミストが主張するトリクルダウン理論と同じように成長がもたらす幸福はしょせん幻想にすぎない。
日本は奇跡の経済成長を遂げた国である。その国の指導者やビジネスリーダーを成長神話から脱皮させることは、農耕時代から工業時代へ変わるくらい大きなシフトとなるだろうが、日本で高度経済成長が始まったのは戦後の復興がすすんだ1950年代半ば、エネルギー資源が石炭から豊富で安い石油に変わった時期だった。日本の経済成長を支えてきたものが何であるかを考えれば、それが終えんにあることを理解することは難しくないはずである。