以前、食育について書いたとき読者の方からコンビニの弁当がいかに有害かという情報を頂いた。私自身はコンビニの弁当を食べないが、私の住む京都だけでなく全国に展開しているコンビニ各社の店舗をみれば、多くの人が常用していることは想像に難くない。
不健康な物を食べない権利
その情報は西日本新聞社が発行する『食卓の向こう側』という冊子で、福岡県内の養豚農家で月20万円の餌代を浮かせるために、回収業者からのコンビニの弁当やおにぎりを母豚に毎日3キロずつ与えたところ、奇形や死産が相次いでいたことが分かったという。具体的なコンビニ名は報道されていない。
コンビニはその名の通り確かに便利かもしれない。しかし私は、京都の古い町並みが消えてコンビニに変わるのを見るにつけ、なにかわびしい気持ちになる。そのコンビニが豚に有害な弁当を提供しているというのだ。
利便性と安全性。これは鉄道や航空業界のように相関関係が即座に表れる場合は、そのバランスを取ることが企業の命題である。しかし、生き物に有害だとされる弁当の添加物の場合はどうか。毎日3カ月間、そればかりを与えられた豚に死産が増えたからといって、人体への影響はどうなのかという明確な答えにはなっていない。おそらくその相関関係は、アスベストの被害が何十年もたってようやく証明されたように、多くの人々の命を犠牲にした後で、製造元や行政が責任を押し付けあうような状況になるのであろうか。
自己責任の時代、多くの選択肢の中からその商品を購入したのはもちろん消費者の責任であり、売り手にしてみても政府の食品安全委員会が認める範囲での添加物の使用だということになる。むしろ添加物を使わず食中毒でも発生すれば、消費者は売り手や製造元を激しく糾弾するだろう。食中毒は因果関係が明確だからだ。
私が日本にきて最初に感じたのは、その豊かな食文化である。小皿や小鉢に盛られた彩りは、目と胃袋に季節ごとの楽しみを与えてくれた。肉食が中心の米国で育った私が肉を食べないのはBSEのせいだけではない。
牛肉1キロを作るために10キロ以上の飼料が必要であり、日本人が伝統的にタンパク源として消費してきた大豆は牛や魚の飼料として使われている。日本の大豆の自給率はわずか3%であり、そのほとんどが米国からの輸入大豆である。そしてレスター・ブラウンによると2004年時点で米国産大豆の85%は遺伝子組み換え大豆だという。大豆は日本で遺伝子組み換え表示が義務付けられているが、重量の5%を超えている場合だけだというから、生産者にとっては抜け道だらけなのである。
敗戦後、米国主導の経済復興で始まった日本の学校給食は、状況が変わった今でも続いているようだ。先日読んだニューヨークタイムズ紙に、ニューヨークシティは公立校で給食から牛乳を禁止したと書いてあった。日本でどのような宣伝がなされているか分からないが、米国では以前から牛乳が白内障や糖尿病の原因となっていることが一部で指摘されている。BSEについての報道すらできない米国で、この決断は容易ではなかったはずだ。しかし日本で牛乳が給食から禁止されるのはまだ先のことだろう。米が余っていてもパンが出され、BSEの危険があっても牛肉の輸入を政府は急がせたいのだから。
国民の健康よりも生産者の利益、米国の命令が優先するのである。私は牛乳はほとんど飲まず、もっぱら豆乳を愛飲している。これは主に植物性食物をとり、動物性食物を避けるという私のポリシーからだが、これからは大豆が遺伝子組み換えでないことを確認する必要があるようだ。
現代社会が直面している問題は、人々がなるべく早く、なるべくたくさんもうけようとしていることに起因する。コンビニ弁当を食べさせた養豚業者は、安く、早く豚肉を生産しようとして危険な食べ物を使ったのであり、また消費者が農薬漬けの輸入野菜を使い添加物にまみれた安くて便利な弁当を買うことも、お金と時間を節約するためだ。それが分かっていても、この問題を解決することは容易ではない。なぜなら最も多くお金と権力を持ち、社会に大きな影響力を持つ人々が「早く、たくさんもうける」ことを教育やメディアを通して喧伝しているのだから。
せめてこれに気付いた国民は、危険で不健康な食べ物を食べない、買わないという権利を行使するしかない。