Daily Times (May 2006)に掲載された記事を許可を得て掲載します。
Educational Opinion■教育論
「道徳」が日本人を復活させる
日本人は自分で判断することを学ばず、従順であることだけを教わってきた。しかし、もっとも必要なのは「自立」する力だ。
教育とは、世の中でどのような役割を果たしているのか。たとえば人を支配したいと考える場合には、言うことに従うような教育をすればいい。実際に、世の中の多くの会社では、権限を持つ人の言うことを素直に聞き、覚えることを目的とする社員教育が施されている。だが、同時に求められているのは、しっかりとした自己管理ができる社員だ。やはり善悪の区別がつかず、社会のルールに反した行動をとることは許されない。そこで必要なのが道徳教育の復活ではないだろうか。
「羊の群れ」を支配するのは簡単
江戸時代の日本には、寺子屋があり、道徳中心の教育が行われていた。だから恐ろしい風貌の侍が切れ味鋭い刀を持っていたとしても、庶民を相手に鞘を抜くことはなく、みんなが安心して暮らしていた。
幕藩体制が終焉を迎え、王政復古の大号令が発せられた1868年以降は、国家元首である天皇陛下をもっとも尊重する教育が行われ、1945年まで続いた。その間に教育を受けた人は、玉音放送が流され、日本が戦争に敗れたことを知ったとき、ものすごいショックを受けただろう。一方、戦争に勝ったアメリカにしてみれば、明治の教育を受けた素直な国民ばかりの日本は、植民地支配するのにきわめて好都合な国だった。
そして戦後、アメリカは明治日本の教育を奪い、偶像化した。制服が洋服になり、英語を話せることが望ましいとされた。当時の現役世代には、松下幸之助、本田宗一郎、出光佐三といった、戦後の日本を強くした優れた指導者もいたが、その人たちはきわめて稀な存在ではなかったか。終戦を迎えた45年以降の日本には道徳教育がない。儒教、武士道、仏教、神道のいずれも教えられていない。子どもに教育されていることは、だた従順に命令を守ることだけである。現在の日本人が抱える最大の問題は「精神的な弱さ」のように思える。
家庭では、母親が子どもに「歯を磨きなさい」「もう寝なさい」「何時までに家に帰ってきなさい」と命令している。子どもたちは、家のなかでもっとも強い人の言うことに従うだけだ。学校では教師が「2+2=4」と教える。生徒が「なぜ4になるのか?」と尋ねると「ダメな子どもだ。素直にしろ!」と叱られる。権力者の言うことはすべて正しく、言われる側に考える余地はない。そのような教育が大学まで続いている。
生まれてこのかた、命令に従うことしか教わってきていない人間に、自己管理ができるだろうか。できるわけがない。自らが考えるべきだとも思わず、言われることを守るだけであれば、それはまるで羊の群れでしかない。それが現在の日本人の姿である。
言われたことしかできない人が、まずAという人物に命令され、それとまったく逆の指示をBという人物に下された場合はどうなるか。身動きがとれなくなってしまう。道徳教育のないアメリカにも同様の傾向があり、日本に限った話ではないが、現実として、そのような人は多いのではないか。
真の意味で自立した人を育てようと思うのならば、江戸時代の寺子屋で教えたような善悪の区別ができる教育、すなわち道徳中心の教育を行わなければならない。多くの人が、自分の考えることと他人の価値観が同じかどうか考えるだけでも、社会のまとまり方は違ってくる。良いことをすれば評価され、悪いことであれば非難されるのであれば、個人として自己管理がしやすくなり、人が自信を持って行動することができるようになるはずだ。
鎖国は自立した国家である証明
江戸時代の日本は、徳川家が独裁支配していた国といえるが、当時は現代日本よりも国民の幸福を考えた政治が行われていたようだ。権力者である徳川家の将軍は、庶民の暮らしについて強く意識していたように感じられ、その頃の日本人は、アメリカの支配下にある現代人よりもよほど幸せだったのではないかと思える。当時の日本は鎖国をしていたが、それこそ国家として自立していた証明といえるだろう。
現在の日本は、カロリーベースの食料自給率が40%で、食料の6割を輸入しなければならない。また、エネルギー自給率はおよそ20%しかない。これではおよそ自立した国とはいえず、実際にアメリカに媚びへつらっている。少なくとも国連の常任理事国になれるような国ではないだろう。鎖国という自立した国家が崩壊したのは明治以降。教育制度などは整えられ、学力面では向上したものの、自立する教育は廃れてしまった。
日本が国家として自立するのであれば、鎖国の頃のおそらく3000万人くらいの人口が丁度良いのではないだろうか。そもそも不自然な成長は、人間の身体と同様に、病気と考えるべきだ。明治時代の1872年、日本の人口は約3400万人だった。それがいまや約1億2700万人に膨らんでしまっている。なぜだろうか。それが日本の政府にとっては好ましいことだったからだ。
明治の頃の日本は軍国主義で、戦争に行く人、そして武器をつくる労働者が必要とされた。そのため人口を増やす政策がとられ、終戦時には総人口は倍以上になった。また、それ以降は経団連に加盟しているような企業が利益を上げるために消費者を増やすことを求め、さらなる人口増のための政策がとられた。
もはや日本に武器はいらない、社会のコンピューター化が進み、労働力も余っている。けれども企業は人口が減ることを望まない。シャンプーする頭、ビールを飲む胃袋が欲しいのだ。この状況を守るために大企業は政治家に献金している。
日本は国民主権の民主主義国家のはずだが、現状では「民(搾)取主義」が正しいのではないだろうか。政治家や官僚、一部の大企業が日本経済を守るために国民を騙している。大量製造、大量消費の世の中を支えているのは、言われることに素直な、つまりは宣伝文句に弱い人だ。国民の消費が日本の国内総生産(GDP)の6割を占めるなかでは、たとえ不必要な商品でも国民に買ってもらわなければ困る。必要か不必要かをきちんと判断できる、自立した国民が増えてしまっては日本経済にとって大きなダメージとなってしまうのだ。
少子化問題が叫ばれ、対策が急務と言われるのも、消費者の確保のためでしかない。いわば企業が儲かるためのマインド・コントロールだ。だが、これ以上、この混み合っている国に人を増やしてどうするのか。そもそも全世界の総人口約65億人ということ自体が不自然だ。適当なのは10億人くらいではないかと思える。
少子化によって日本は救われる
日本では現在、男女ともに結婚年齢が上がり、結婚後も出産しない女性が増えている。これはある意味、本能的な選択ではないだろうか。いずれにせよ国家も国民も自立していない環境では、子どもは産みづらく、育てにくい。政府が余計な人口増の政策をとらなければ人口は自然と人口は減っていくだろう。すると次第に国が自立できるようにもなっていくはずだ。これ以上、人口が増えるほど、その可能性は低くなっていく。
しかも、現在の日本の頼みの綱であるアメリカの先行きも不安定だ。住宅バブルに沸き、日本の金もずいぶん流れ込んでいるが、バブルがはじければ価格は暴落する。そのときに日本はどうするのだろうか。選択肢は、別の保護者を探すか、あるいは自立の道を進むしかない。
だから政府は、日本が自立した国家へとソフトランディングするための、ゆるやかな人口減の方針に転換すべきではないだろうか。残念ながら、そうしなければ21世紀は、飢餓や病気をともなう苦しい100年となりそうだ。かつての戦国時代のような世の中を経て、その後、もう一度、日本に江戸の人々の精神、国家の仕組みを取り戻すことができたなら、日本を回復させることができるかもしれない。だが、現職の首相も日本を代表するような大企業の経営者も、考えるのはいま現在のことである。首相は次の選挙のことを考えることがもっとも大切なことで、企業経営者は現在の利益を守ることができなければクビになってしまうからだ。このままでは日本は世界地図から消えてしまうかもしれない。
もっとも、日本が民主主義国家なら、その主人は国民である。公平な社会を望むのであれば、その責任はすべての国民が負うべきだ。政治家や官僚、財界人のせいにするばかりでは無責任だ。もっと自分たちの問題として受けとめるべきで、たとえ苦しい思いをしようとも、自分たちの力で解決する意思を持つべきだろう。つまりは独自の力で自立することだ。それこそ、日本と日本人に、ずっと必要とされてきたことではないか。