No.729 仕事の基本は人と人

朝日新聞社が発行する「論座」(2006 5月号)に掲載したエッセイを、朝日新聞社の許可を得て転載します。

仕事の基本は人と人

大学を卒業してから、働きながら大学院にいけるという条件が気に入って米西海岸の会社に就職したものの、学生気分は抜けきらず、自分が何をしたいのかもよくわからない時代が私にはあった。コンピュータが普及し始めた頃で、数学が好きだった私は、大学院で計量経済学を学ぶのが楽しくてしかたなかった。当時の職場は上司をはじめ私以外みな仕事熱心なユダヤ人で、互いに高い目標を掲げ、求められるものは厳しかった。しかし、私はそんな職場でもいい線をいっていると自負していた。

ある時ワシントンで顧客にプレゼンテーションをすることになった。初めての重大任務で、私なりに練習を重ね、満足いくものができると思っていた。出張当日、出発前に上司の前でプレゼンをしたところ、10分もしないうちにさえぎられ、航空券をキャンセルしろという。要は、聞いてもらおうという工夫もないし、もっと興味をひく話し方をしなければならない、つまり私は自分が言いたいことだけを言っているというわけだ。私は内容を構成し直し、徹夜でプレゼンの練習を行った。翌日、もう一度上司の前でプレゼンを行い、ようやく出張許可がおりたのだった。そしてこのエピソードが契機となって大学院の勉強よりも仕事への興味と情熱が高まったのである。

人間の考え方には癖や傾向がある。私は数学や統計が好きなので今でもデータで人を説得しようとすることが多い。しかし仕事の基本は社内も社外も人間が相手で数字ではない。仕事とは人間がよりよく生きていくことをサポートするためのもので自分の満足を満たすだけではないのだ。この上司は自分が転職する時に私にも声をかけてくれて、私も一緒に会社を移った。米国ではこういうことは珍しくない。良い人間関係は人生を自然とより良い流れに導いていく。若さは時として人を傲慢や自信過剰にする。だが人間は所詮一人では何もなし得ないということを忘れてはならないと思う。

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