日本社会において人々がうっすらと感じ始めている階層の二極化について書かれた「下流社会」という本が売れていると聞いた。人づてで内容を聞いただけで読んだわけではないが、日本で起きている格差の拡大を本人の性格や心理を原因だと理由付けているのであれば、私は賛成できない。
失策「グローバリゼーション」
一国の首相が格差の広がりを肯定するコメントをした裏には、彼らの政策が格差を拡大するものであることを理解しているためであると考えられる。その政策とは規制緩和、民営化だが、それらはまたグローバリゼーションという言葉で言い換えることもできる。なぜなら規制緩和や民営化は経済的に強い立場にある者にさらに権力が集中するというシステムであり、日本、そして世界において起きているのはまさにその現象だからだ。
格差が拡大しているのは日本だけではなく、米国や中国、世界のほとんどの国で広がっている。グローバリゼーションとは国家を越えて地球が一つになるということであり、それを支えるのは自由市場、国際投資といった経済原理である。しかし、グローバリゼーションによって国境がなくなった後、富はどこに流れているのかといえば一握りの人々の手に渡っている。
日本の格差の広がりは、さまざまなデータからも明らかだ。国民一人当たりの生産高はOECD30カ国で上位9番目にもかかわらず貧困相対率は下位から3番目で、日本があがめる米国はさらにひどい。ジニ係数でも米国の格差は大きく、0に近いほど平等な社会で100は完全に不平等を示すが、米国は41、日本は25、中国でも45となっている。
米国のジニ係数は生産性が上がっても過去35年間上昇し続けた。オープンな競争社会の米国では、労働者は利益への貢献度によって報酬が決まるはずである。しかし生産性や業績が上がっても一般労働者の賃金は同じ割合で上がっていない。
製造業から始まった米国のグローバリゼーションはいまやサービス産業に拡大し、米国の労働者はインドや東欧、上海の労働者と職を競い合っている。IT技術の発展で世界のどこにいても同じ仕事がこなせるのであれば、企業経営者は安い賃金のインド人労働者を採用するのがグローバリゼーションだからだ。
コンピュータのソフトウェアを販売、サポートすることを生業とする私は、ITの利点を存分に利用し、京都に住みながら東京をはじめ日本国内数拠点を網羅して経営にあたっている。これは素晴らしい鉄道交通網とインターネットをはじめとするIT技術のおかげだと痛感しているが、多国籍企業の経営者も、同じように技術革新の利点を享受し、従って米国の労働者はソフトウェア開発、エンジニア、会計やコンサルティングまでインドや上海、東欧の労働者と競い合わなければならなくなっている。
そしてごく少数の経営者が多額の報酬を手にする一方で、大部分の労働者は上がらない賃金と不安定な雇用を強いられる。言葉の理由から日本ではサービス業の海外流出は米国ほどではない。しかし日本経団連会長のコメントをきくと、高い失業率の日本に外国人労働者を受け入れることで同じように日本人の賃金を下げようとしているのが分かる。
グローバリゼーションを推進するのは企業経営者や政治家といった、インドや上海に移ることはない仕事を持つ人たちだ。だからこそ、グローバリゼーションではごく一部の人に富が集中するだけで多数の国民が幸福になるわけではないという事実を知りながら、彼らはそれを推進している。自分たちだけが利益を享受できればいい、というのだろう。
技術革新、産業の発展で生活は向上するかもしれない。しかしそれが国のごく一部の人だけを潤すのなら、そしてこの一握りのグループと残りの国民の格差がさらに広がるのなら、いつの日か必ずやグローバリゼーションは歴史における失策として記録されることになるだろう。しかしその日まで、市場経済において競争はよいこととされ、規制が撤廃され、グローバリゼーションという名の下で労働者の賃金を下げなければ世界市場で生き残れないと多くの労働者をますます貧しくするような施策が次々と導入されるのだろう。
企業経営者の利己主義と国民の無関心さによって地球に住む多くの人々が困窮していく。こうして形成される「下流社会」を、コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、といった能力や意欲の低さのせいにするのは簡単だ。しかしそれこそ、一部の権力者の思うつぼだと思う。