No.740 「戦争は平和-」日本の未来

このコラムを書いているため日本語が堪能だと思われがちだが、読み書きは勉強中で、このコラムも英語で書いたものを社員が訳したり、口述したものをまとめさせているのが現実である。日本語の習得は難しい。かと言って英語が簡単だというわけではなく、学生時代からリポートは苦手で、卒業論文は書き直しを命じられ苦労した思い出がある。

「戦争は平和-」日本の未来

言葉は感情や思想を伝える手段として使われる音声や文字のことである。それは事実を伴わない、文字通り口先だけのものもあれば、受け手や聞き手によっては異なる解釈になるものもある。私が他者に向けて何かを発信するとき、なるべく数字やデータを多用するのは、たとえ受け手が私の意図する結論とは違う考えを持とうとも、少なくとも同じ対象物を見てほしいと願うからだ。

私は文学者や詩人ではなく、数学や統計が好きな企業経営者であるから、学術的な意味で真の言葉はどうあるべきかということについて語るつもりはない。少し前に国会で「コンプライアンス」「ガバナンス」といった英単語を使った質問に対して、ロンドンに遊学していたという小泉首相でさえも苦情を呈したという話を聞いたが、特に日本では、相手をだます場合に英語が多用されていることは事実であろう。

しかし小泉内閣こそ国民をだます言葉をよく使っている。例えば「グローバルスタンダード」だが、この言葉が日本で使われるようになったのは90年代後半からで、米国からの要請にすぎない改革を「グローバルスタンダード」と称し、日本はそれを次々と取り入れていった。多様性に満ちたこの地球(グローバル)で、一体何が標準(スタンダード)なのかも議論されなかった。平易に言えば、それは弱肉強食の原則に基づく、少数の勝者と大多数の敗者を生み出すシステムにほかならないことは明白だ。80年代から90年代にかけて貧富の差が拡大した米国社会と同じような現象が、現在日本において起きているのはそのためである。

グローバルスタンダードの導入、つまり米国の金融資本に日本市場を開放することで、郵貯の民営化からいずれは日銀までも民営化され、日本経済がますます国際金融資本によって支配されるようなシステムに変わっていくだろう。

もう一つ、与党自民党政府が国民をだましているのが、日米安保条約の目的の達成のために活動する米軍を日本は支援しないといけないということだ。しかし実際は、安保条約第五条には「自国の憲法の規定及び手続に従って、共通の危険に対処するように行動する」とあり、米国が日本を守るとは一言も書いてない。米軍基地の再編も欺まんで、米国の「テロとの戦い」のために、日本もその殺りく行為に参画するということである。

何が「テロ」なのだろう。不法占領をしている米軍に抵抗するイラク人の行動はテロなどではなく、むしろ米国のイラク侵略こそがテロではないか。しかし在日米軍司令部のある東京の横田基地に、日本の航空自衛隊の戦闘部隊を統括する航空総隊司令部を移転して米軍と自衛隊とが一体となった「共同統合作戦センター」を設置するなど、政府は国民を欺きながら、どんどん日本が米国の戦争体制に巻き込まれる状況を作りつつある。

今から60年前にも、政治による言葉の乱用を嘆いた文学者がいた。民主的社会主義者として全体主義や専制主義のイデオロギーを批判したイギリス人作家ジョージ・オーウェルである。オーウェルはその著書「政治と英語」で、言葉が「堕落」したのは究極においては「政治と経済」に起因すると述べている。それは思想がおかしくなるから言葉が醜悪で不正確になり、半面、言葉が乱れているためにくだらない思想を容易に抱くようになってしまう、という。

政治の言葉が婉曲法と論点回避と、もうろうたる曖昧性とから成り立つのは、それは政治的言論が、日本に対する原爆の投下など、普通の人間なら顔を背けたくなるほどむごいものだからだ。テロとの戦いも普通の言葉を使えば、イラクの石油を確保するために逃げ惑うイラクの人々に劣化ウラン弾を向け、家を焼夷弾で焼き尽くすことなのだ。

オーウェルは小説『1984年』でも、新語法という、意図的に政治的・思想的な意味を持たないようにされた言葉が普及し、反政府的な思想を書き表す方法がなくなった世界を描いている。「戦争は平和だ 自由は屈従だ 無知は力だ」 それは日米政府が目指す未来社会のようでもある。