No.741 「平和のための行動」は詭弁

小泉首相はイラク南部サマワに派遣している陸上自衛隊を撤収する方針を表明した。日本の多くの人は、米国が始めたイラク戦争を小泉首相が支援し、自衛隊を「テロとの戦い」という戦争に参加させていることをもはや意識してはいないようだが、航空自衛隊は継続して米兵の輸送を継続するのだから米軍の後方支援活動を続けることに変わりはない。

「平和のための行動」は詭弁

自衛隊の活動は「武力行使」ではなく、従って国際紛争を解決する手段として武力による威嚇または武力の行使は行わないという憲法第九条に抵触しないというのが言い訳なのであろう。

作られた経緯はさておき、私は憲法第九条は素晴らしい法律だと思う。日本は広島、長崎に原爆を投下され、空襲では数百万人が命を失った。人類を破滅から救う唯一の道は軍備の撤廃と核兵器の廃絶しかなく、逆にいえば、いくら政府が軍国主義に走り日米同盟を補強したところで、核戦争の時代に日本のような小さな島国が生き残る手段は平和しかない。だからこそ平和憲法を守り、それに沿って国家運営をしていくべきだと思う。

イラク戦争はイラクの安定のためだと小泉首相はいうが、平和と自由のためという言葉は欺まん以外の何ものでもない。現実問題として一九四五年以降、米国は平和のための戦いなどしていない。朝鮮半島、ベトナム、レバノン、パナマ、グレナダ、イラク、どの国も米国に戦いを挑んではいないし、ウサマ・ビンラディンは国ではなく、19人の若者が9月11日に自爆テロを行っただけだ。

戦争で危険と直面するのはそれを決断した指導者ではなく、戦場へ送られる兵士たちであり、戦場となったイラクやアフガニスタンの人が望んでいるのは、自分の国から米軍に出て行ってもらうことだ。なぜならそれが自分たちの自由と平和につながるからである。

六月半ば時点でイラク戦争での米兵の死者は約2500人に上り、米国内で反戦活動も盛んに行われている。このような中、米国は新しい戦争のスタイルを模索している。人間の介入なしに敵を殺す、テレビや映画のような戦争を米国防総省は真剣に研究しているのである。

何十キロも離れた場所からコンピューターゲームのようにモニターを見ながら敵を攻撃し殺すという、SFでもファンタジーでもないこの技術は、米政府が巨額の補助金を大学や軍需産業界に出して既に開発されている。軍事専門家が集まってビデオゲームをしているなどというのは想像もつかない光景だが、例えば『Urban Resolve』という米国防総省が開発した大規模な戦闘シミュレーションでは、敵対する兵士グループが、包囲された都市の支配権をめぐって戦うゲームで、兵士、民間人、戦車など、いくつもの構成要素をもとに行動をモデリングできるという。

このような無人技術を米軍は1995年ごろから使用し、アフガニスタン、コソボ、イラク戦争で実際に使用した。イエメンではアメリカの無人偵察機がテロリストが乗っているとみられた車両に遠隔操作でミサイルを発射し乗っていた全員を殺害した事件も起きた。

超ハイテク兵器の活用で米兵の戦死者が減れば、テロとの戦いは新たな戦場に移る。考えてもみてほしい。たとえ犯人が無人偵察機であっても、殺された側はどの国がそれを操作しているのかを知っている。戦争と娯楽の境界線があいまいになり戦場で命を失う米兵が減れば、ニューヨークやロンドンの街角が新たな戦場になるだろう。

味方の兵士を危険にさらすことなく、戦争がコンピューターゲームのようにスクリーンを見ながら行われる戦争。しかし一体そこでは誰が、どの情報をもとに攻撃対象を特定するのだろうか。そしてその虐殺の責任を誰が取るのだろうか。

先日イラクではアルカイダのザルカウィ容疑者が米軍の空爆で殺され、ブッシュ大統領はその後継者も「正義の裁きを下す対象となる」と述べた。米国が敵対視するキューバのカストロ議長はこれを「容疑者だからといって単に抹殺されるべきではない。このような野蛮な行為はあってはならない。古代ローマの法律でさえも犯罪者に対する裁判を義務付けていた」と批判したという。米国はザルカウィ容疑者を有罪と判断し殺害する裁判官の立場にはない。しかし米国はその権利があるかのごとく振る舞っている。

自衛隊のイラク派遣は小泉政権の対米協力の象徴的な政策だが、日本の平和のために、そのような行動をとる米国に追随するというのは詭弁(きべん)である。