No.754 戦争すれば商人が富む

米国で生まれ育ち高等教育を受けた私が米国の真実の歴史を知ったのは最近のことである。私が習った米国史は、白人の支配者が自分たちの仲間である金持ちや権力者のために書いた歴史だった。

戦争すれば商人が富む

16世紀、ヨーロッパから多くの人が北米大陸へやってきた。当時のヨーロッパは疫病や飢饉、数世紀にわたるイスラムなど異文化勢力との戦い、イギリスの「囲い込み」のような国土の私有化による社会と産業の激変によって混乱し、人々は新天地を求めた。しかしそれはコロンブスやヴェスプッチが発見した新大陸ではなく、豊かな恵みを享受しながらインディアンと呼ばれる先住民たちが暮らす場所だった。

土地の私有観念も持たず平和に暮らしてきたインディアンたちは武力によって土地を奪われた。独立宣言は大虐殺された先住民族の上にできたことを、私は教えられることはなかった。米国政府のマインドコントロールとはいえ、私は人間として深く恥じている。偽りの歴史を自国民に教え続ける米国は、カリフォルニア、アリゾナ、テキサスといった土地をメキシコから奪い、今そこに何百マイルもの壁を建てるという。

歴史は勝者や支配者側の人間によって書かれる。それは大多数の国民の視点ではなく富と権力を握る一部の人々の利益のための政策だからだ。

しかしまれに多数の国民を中心に位置付けた政策をとっていた社会もある。それが江戸時代だった。江戸というと米国における先住民社会のように、劣っているものとして西洋文化崇拝が盛んになった明治以後、愚かな封建時代という批判の対象となってきた。しかしそれは支配階級による意図的なものであったと思う。

江戸の身分制度「士農工商」は明治の独裁政治体制になって廃止された。しかし実際には「士商工農」の社会に取って代わり、今日まで続いている。例外は高度経済成長期、短い期間だったが「士工商農」と呼べる時期があった。なぜなら当時の松下幸之助や本田総一郎、立石一真、井深大といった経営者は商人よりむしろ職人だった。しかし再び、ほとんどの経営者は商人や金融家になった。

「士農工商」が好意的に扱った農民や職人という階級は、日本の国民の大部分を占める労働者や農民、その家族である。一方の商人という階級はいつの時代でも少数派であった。「士農工商」は国民が必要な物を作る階層である農民や職人、つまり大部分の国民のための身分制度であり、そのしばりがなくなった明治以降、少数の商人階級が持てる富を利用してさらにお金もうけをするような社会に変わっていった。

職人や農民は、自然環境という限界と人間の本能から、過剰にものを生産することはしない。残りの時間は心身を休めたり家族や友人と遊ぶなど、人間の自然な欲求に沿って生きている。しかし商人には別の強い欲求がある。それはもっとお金をもうけたいという貪欲(どんよく)さだ。富を手にするとそれ以上のものが欲しくなる。こうして商人はもっと多く生産し、さらにそれを売るために宣伝広告を使って人々にもっと買わせるか、または戦争に依存するようになる。戦争は大昔から使われた手法だが、広告宣伝が使われたのは第一次大戦ごろからだ。

支配階級にある商人が持てる富を使って大もうけする方法が戦争で、兵器や戦争物資の製造は、最も早く簡単な金もうけの方法だった。さらに爆撃で破壊されたものを再び作り直すビジネスも生まれる。軍需産業を通じて企業に利益をもたらすこの構造が、いま米国を戦争に駆り立てている。商人は戦争で利益を手にする

士農工商制度のもと、武士は戦争の必要性も動機付けも不要だった。たとえ平和でも、権力や影響力が維持できたからである。職人も農民も平和を求める。戦争で最も多く殺され、傷つくのは自分たちだと知っているからだ。

こう考えると安倍首相が戦争をしたがっているのはごく自然なことだ。現在「武士」にあたる政治家は、安倍、小泉はじめ多くが世襲となっている。第二次大戦前から、そして平和になって60年間以上、少数の政治家の家系によって日本は支配されてきた。日本を戦争に引きずり込めば政治家のスポンサーである商人階級をより富ませることができる。

士農工商を廃止した明治時代は商人階級に支配されていた。権力を失った武士の多くは商人として富国強兵を進め、日本は戦争への道を歩んでいった。この歴史を忘れてはならない。