No.756 愚かな決定は国民が犠牲に

これまでも長いこと日本に住んできたが、この6月に日本に帰化したことで何か意識が変わったところはあるかとよく聞かれる。

愚かな決定は国民が犠牲に

人生の半分以上を日本で暮らしてきたこともあり、特に気持ちの上で変わることは何もないと思っていた。しかし手続きのために日本の法務局へ提出する作文を考え、それを日本語で書いているときに、あらためて国籍を持つということは権利と義務の両方が発生するということに気付いた。

それは日本国籍を新たに持つということよりも、私が二重国籍として米国籍を持つ限り、私は米国に対して義務や権利を有しているということだ。そして、強く感じたのは、今の米国に対して、そのような責任を持ちたくはないということだ。つまりこれからは日本国民としてだけの権利や義務を果たしていきたいと強く思ったのである。

ほとんどの日本人は国籍というと生まれたときから自分に備わっているもので、それが付随する責任について考えることは少ないのではないだろうか。しかし国民の大切な義務は、特に危険な時代においては「考える」ことだと思う。自分で考えることのできる自立した国民がいなければ民主主義は成り立たない。考えるという作業は、感情的、扇動的な言葉に流されるのではなく、現実に何が起きているのか、ありのままを見極めることだ。

現代において、この「ありのまま」を見ることは容易ではない。テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、インターネットと、あまりに多くの情報が流され、その多くは不完全だったり、大したことのない内容だったり、また偽りだったりする。

特にマインドコントロールの現代では、国民の恐怖をあおること、例えば北朝鮮の核実験はそのミサイル能力と併せて考えれば地域の安全保障にとって大きな脅威となる、という安倍首相のコメントを日々主流メディアが流せば、北朝鮮が国際社会にとって最悪で、脅威を呈している国だと思うだろう。しかしそれらの情報をすべてうのみにすべきではない。

2002年、ブッシュ大統領は一般教書演説でイラク、イラン、北朝鮮の三カ国を「悪の枢軸」と名指しした。これらの国々は大量破壊兵器を開発してアメリカを攻撃しようとしているので、場合によっては先制攻撃する必要があると述べたのである。そして実際2003年3月、米国はイラクに先制攻撃を加え、その戦争は今日でも続いている。しかし、イラクに大量破壊兵器はなかったし、イランにもなかった。これが事実であり、米国の実態だ。

イラク攻撃に自衛隊を派兵して米軍を支援する国の指導者である安倍首相がいくら北朝鮮を非難しても、北朝鮮の核実験はブッシュ外交政策がもたらした結果であり、悪の枢軸と呼ばれ、「不可侵条約」も米国に拒否された北朝鮮が、イラクの二の舞いになるのを防ぐために核兵器を配備したいと思うことは自然なことなのである。

「悪の枢軸」という言葉はブッシュ大統領のスピーチライターが「イラク攻撃を正当化する最善の理由を書いてくれ」と頼まれ、1941年のルーズベルト大統領の宣戦布告を求める演説をもとに当時の日独伊三国同盟陣営を意味する「枢軸」という言葉を使ったという。そして原爆使用を反対したアイゼンハワーを押し切って、ルーズベルトのあと大統領になったトルーマンの決断によって広島と長崎に核兵器が使用された事実はいまさらここで言うまでもない。

メディアが世論を形成する中、北朝鮮の行動をかばう発言を少しでもすれば非難の的になるのは承知の上であえて言うが、もしあなたが北朝鮮の指導者だったら、米国のこれまでの「外交政策」をみていてどうするだろうか。米国からの攻撃を抑止するために核兵器を保有したいと思うことは、公平にみてそれほど悪意に満ちた狂った行動だろうか。国民が餓死しているような国で巨額な費用をかけて核を持つことが喜劇だというなら、同じように貧しい国民を抱えるインドやパキスタンも核兵器を保有している。

歴史を振り返ると、国家指導者が意思決定を誤った事例は数多くある。そして愚かな決定をすれば犠牲になるのは一般国民である。もし国家の指導者が他国の言いなりになって政策を進めるのであれば、その決定が国民にとって悪いものになる可能性はさらに増すだろう。だからこそ、国民は「考える」必要がある。それは国民の責任でもある。