No.760 日本語の「人間」の意味

愛知県でホームレスが襲われる事件が相次いだ。殺人にまでは至らずとも、ホームレスに対して暴行を加える事件はここ数年頻繁に起きている。また学校ではいじめが後を絶たない。

日本語の「人間」の意味

ホームレスに向けられる暴力、学校などで多発するいじめは、通常「弱い者いじめ」である。いじめられる側にも非があるような指摘をみることがあるが、いじめる側、つまり強者のほうに問題がある。いじめを受ける側である肉体的、精神的、または経済的弱者に「訴える」自己表現ができるくらいなら最初からいじめなど起きはしない。

日本国籍となっても外国人の目で日本を美化している、という指摘を受ける。しかしそれは私のよく知るところの米国の、または西洋の考え方ややり方と比べて、日本人の態度や対処の仕方の方がずっと優れていると感じるのだから仕方がない。とはいうものの平成時代になってからの日本は昭和の時代や、書物などで描かれている江戸時代の日本からは隔世の感がある。

言い換えると、多くの日本人の考え方がすっかり米国風になってしまった。それが日本の国内で起きているような事象となって現れているのだろう。米国流儀は、力のある者は弱い者に対して何をしてもいいというごう慢さや思い上がりである。それを模倣している日本政府のやり方を、社会の人々が無意識に模倣して勝ち組や負け組に仲間を分断し、さらにそれがいじめや暴力という形で若者や子供たちがまねをするのだ。

明治時代、日本に関する本を著した西洋人にイギリスのチェンバレンがいる。言語学者であるがその著書『日本事物誌』では、日本人にとっては当たり前のこととして見過ごされるような特質について記述されている。その中で同感だと思うことがいくつかある。例えば、付和雷同を常とする集団行動癖や、外国を模範としてまねするという国民性の根深い傾向、などだ。

もちろん私はチェンバレンのように優れた学者でも、研究対象として深く日本を見ているわけでもなく、ただ人々と暮らし、企業という組織を通して商売をしている間で感じているにすぎない。しかし人間の長所と短所はコインの表裏のようなものだ。日本は外国を模範として、連続性の中で積極的に異国の文化をとりいれ、それを日本古来のものと融合させ長い歴史を築いてきた。

またもう一冊日本の方にもぜひ読んでもらいたい西洋人が日本について書いた本は、GHQ労働関係諮問委員会のメンバーだったヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』である。チェンバレンのように幕末開国期に日本を訪れた多くの西洋人の目に映った、のどかで平和主義的だった日本人が、なぜ近代日本になって大きく変ぼうし、軍国主義国家に突き進んでいったのかをミアーズは広範にわたる分析をもとに冷静に描いている。

もちろんそれは日本の戦争行為を正当化するものではない。しかしペリーの砲弾の脅しによって開国させられ、欧米列強を見習えと教えられ、その通りにしてきた日本の当時の指導者たちがその列強の国々の利害とぶつかりはじめたとき、原爆を投下され、東京裁判では日本だけが野蛮な国として裁かれた。

いま、安倍内閣は教育基本法を改正し愛国教育を盛り込もうとしているが、歴史を振り返れば、明治維新で脱亜入欧を決めた日本は、それまで自然や先祖に対する信仰であった神道を国家神道に置き換えた。あれこそ愛国教育ではなかったか。そして鎖国から世界へ向かった近代日本は、ミアーズが描いたように米国の鏡となり西洋文明を模倣した。農業や手工業を中心とした緩やかな連合体をとっていた国は短期間のうちに輸出産業中心の資本主義経済を標ぼうする中央集権化された、欧米のような帝国主義国家に変わった。江戸時代のように長い間平和が続いた国は西洋の歴史にはない。

弱肉強食、仲間を勝ち組や負け組に分けること、弱い者いじめは、人間がしてはならないことなのだ。国を愛することよりも人は一人では生きていけないということ、他者との間に合って初めて「人間」となる日本語の意味を子供たちに感じさせることのほうが最優先事項ではないか。子供たちに愛国心をたたきこみ「美しい国」のために戦わせるよりも、思いや行動が「美しい人」の住む日本であってほしい。国とは結局はそこに住む人のことなのである。