No.770 幸せ感じる生活にシフト

もう3月も半ばだが、新しい年になってから新春の集いにおける講演、そしてこのコラムと、自分が興味あること、重要だと思っていることを仕事の関係の方々にお伝えすることができて、つくづく自分は幸運だと思う。

幸せ感じる生活にシフト

新春の集いでは、昨年に続いて、今年も地球の資源が有限であること、加えてゴア元副大統領が『不都合な真実』の映画で訴える「気候変動」が呈する危機について取り上げた。事実を知れば知るほど、化石燃料の使用がもたらした影響の大きさと、古代から繰り返されてきた文明崩壊をいかに人間が学んでいないかを痛感する。しかし気候変動は人類にとって脅威なだけではない。見方を変えると、人類がもっと幸せに、もっと満足する人生を送るためのチャンスでもあるのだ。

化石燃料はわれわれの生活を大きく変えた。人々が手軽に海外旅行をし、超高層マンションが建てられ、スーパーへ行けば季節を忘れる果物や野菜が並んでいる。科学者たちはかなり前から、生活や社会基盤を変えなければ地球の温暖化が進むと警告を発してきた。私自身、環境問題を最初に認識したのはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』だった。化学物質を無制限に使い続けることによって生態系が破壊されることを警告したものだった。しかしわれわれは一度手にした豊かさと便利さを手放さなかった。

よく使われる比喩だが、沸騰したお湯にカエルを入れるとすぐお湯から出ようとするが、水に入れたカエルを徐々に沸騰させると周りの変化に気付かず、ゆでガエルとなってしまう、というのは、まさに今のわれわれだ。今年は暖かい、雨が多い、雪が降らない、もう桜が咲いた、と、すべて異常気象と片付けてしまうには、あまりにも多くの出来事が起きている。いまや、それをどのように認識し、いかに対処していくかを考え実行に移す時にある。

ブッシュ政権がいくら気候変動を無視しようとも、人類にとって都合の悪い真実がそこに存在することは否定できない。二酸化炭素排出量の少ない自動車を造っても、工場のばい煙にフィルターをかけても、同じ価値観、同じ経済システムで運営を続ける限りこの流れを止めることはできない。こうなると、根源的な問い掛けに戻るしかない。それは今のやり方でわれわれが幸せになったかということだ。

地球環境を破壊する行動で幸福になっていれば、それを止めるのは難しい。では過去50年間で、われわれは実際にどれくらい幸福度、または満足度が上がっただろう。生活は飛躍的に豊かになった。自動車、家電製品が普及し、仕事もコンピュータによって生産性は飛躍的に向上した。一人当たりのGDPは倍増し、摂取カロリーも大幅に増えた。では、家族と過ごす時間が増え、より健康になり、人々は格段に幸福を享受するようになっただろうか。答えは「NO」だ。過労死、成人病、離婚、うつ病、犯罪など、生きる速度が速まるつれ、より多くのストレスが増え、悲惨になってきていることは明らかだ。

日本は昭和の時代、人々は共同体を持っていた。近隣とのかかわりは今よりも深く、孤独な老人や病人がアパートで一人で死ぬことはまれだった。西欧の個人主義が日本に普及したのも、化石燃料があったからだ。コンビニやスーパーに行けば、ほとんどいつでも何でも買うことができ、近隣を頼る必要はない。助け合う理由はない。隣の人を知らなくても暮らしていける。

その化石燃料の多用が温暖化を進め、さらには人類をより不幸にしていると結論づけることは短絡すぎるといわれるかもしれない。しかし私個人の実体験から言えば、家庭菜園を始め、大店舗での買い物をやめ近所の店で買い物をし、近隣に友人を作り、自転車で京都の町を移動する生活になってから、ずっと幸せを感じることが増えた。時間が足りないといつも思っていたが、物事をゆっくり丁寧にするようになると、不思議と時間の流れが緩やかになった気がする。

私の感じ方を他者に説明することは不可能だが、スーパーでは無言で買い物ができるけれど、近所の小売店での買い物には会話が欠かせない。コミュニケーションは人を和やかにさせ、確実に幸福度は増す。そして、微々たるものかもしれないが、使われる化石燃料の減少にも貢献する。

気候変動への取り組みは、環境という観点からと、人間の幸福からと、両方から取り組めばよい。言い換えれば、われわれがもっと幸せを感じることができるような暮らし方にシフトする。それはより少ない石油で成り立つ社会なのである。