日本人になることを決めて日本での生活を選んだ私だが、脳裏に浮かぶ今は遠くなった米国の懐かしい光景がある。それはまだ私が幼い頃、母の焼くクッキーの香りただよう台所で、兄弟たちと出来上がるのを待っているといったなんでもない、しかし幸せな日常生活である。
必要なものだけ買う
私が小学生の頃カリフォルニアではまだ石油が採れた。機械メーカーに勤めていた父が友人と始めた石油の採掘現場で使う機械のエンジンを修理する会社は順調だった。採掘に休みはなく、仕事熱心な父は電話がかかれば日曜でも現場へ出かけていき、おかげでわれわれ家族は、質素ではあったが不自由のない暮らしををすることができた。
私の住むオレンジカウンティにも貧富の差はあったが驚くほどの金持ちはいなかった。多くは父のように1930年代の大恐慌や戦争を体験した人々で、彼らにとって生きることは身の丈にあった暮らしをすることだったし、何よりも欲求を刺激する数々のモノたちも身近に出回ってはいなかった。だからこそ、母の作るお菓子や家庭そのものが、幸せの象徴のように今も私の記憶の底にある。
幸せが「消費すること」にとって代わったのはいったいいつ頃からだったか。生きるために必要な物から、次々と新しい製品や過剰ともいえる不要な物が提供されるようになり、いつしか、それら「モノ」を持つことが、繁栄と豊かさの証となった。テレビから高級自家用車まで、人生になくてはならないものとなったのだ。「モノ」の獲得が人生の目的そのものとなったのは日本も同じである。
この物質至上主義に対抗する動きが出始めている。その一つは“無買日”(Buy Nothing Day)という、1年で1日、具体的には北米の人がもっとも買い物をするイベントの一つである感謝祭の翌日を「必要なもの以外買わない日」とする運動である。1992年にカナダで始まり、私は知らなかったが日本でも行われているらしい。
これをさらに進めたのが、サンフランシスコで始まったコンパクト(Compact)という市民グループの活動である。消費行動を見直すために、食料品と薬品、下着などの衛生用品以外、1年間新しい物を買わず、必要なものは中古品を買うというもので、グループ名のコンパクトは、北米大陸に移住したピューリタンが結んだメイフラワー・コンパクトという契約書からとったという。地元のニュースで報道されてから、他のメディアも取り上げ、今では約8千人がメンバーでシンガポールやアイスランドなど全世界で55のサブグループが活動している。
こうした反消費文化的な活動を、米国経済を破壊させるものだと非難する声も多々あるという。しかし必要なものしか買わないのは過激でも革命でもなく、先進国の一部の人々を除いて地球上のほとんどの人が何世代にもわたってしていることだ。それどころか、必要なものすら持たない人が何億人もいるのが現実である。しかし先進国では「物を買わない」ことは、多くの人が信じる「良い暮らし」という概念と真っ向から反対する。そして日本政府や財界も「消費動向の冷え込み」をもたらす行為だと言うだろう。
私個人の体験を言えば、ピークオイルに直面しているという事実を知ってから、衣食住で必要なもの以外、新しい物を買うことを止めた。最初は習慣で欲しい気がしたが、我慢しているうちに自分が「楽しみのために買い物をしていた」ということに気がついた。買うという行為が癖になっていたのだ。そしてすでに必要なものはほとんど所有していることにも気がついた。
コンパクトの活動家は、買い物は問題を解決しないどころか、多くの人々にとってそれが問題を作っていると言う。現代はお金と負債が人生を支配しており、物を買うために長時間労働をするという消費の悪循環の中に入ってしまうからだ。そして無駄な消費が環境に及ぼす影響と、資源をめぐる供給と消費者の需要との衝突を終わらせるためにも買い物を見直すことが必要なのである。
人間の欲望は無限でも、地球の資源は有限である。欲しいからでなく必要なものだけ買うということは消費の悪循環を断ち切るきっかけとなる。そしてそのシンプルさは、私の幼少の至福の記憶ともどこかつながる。