6月にドイツで行われたG8サミットでは、世界経済やアフリカにおける『成長と責任』という大きなテーマで話し合いがおこなわれた。京都議定書後の新たな枠組みについても討議されたが、現実には何も決まらなかったに等しいと思っている。8カ国の中でもっとも地球温暖化の原因となっている米国についていえば、ブッシュ大統領が温暖化を問題として認識し、CO2の長期削減目標策定で合意したというのだから、問題解決にはまだほど遠い。
改革のために
対話は大切であり、国家指導者が問題を真に解決したいと思うのであれば、解決策は戦争ではなく話し合いしかない。それでも、今ほど格差の広がってしまったこの地球で、たった8つの国の少数の人たちが巨額のお金を使ってしつらえられた会場で話し合いを行うというやり方に限界があることを気づくべきだ。グローバル化が、発展途上にある国の貧しい人々にとって真に助けとなるのであればよいが、恩恵を受けているのはごくわずかな人間である。経済が急速に成長しているインドや中国でも、富を手にしているのはごく一部の人々で、現実には富の格差、社会の不平等は拡大している。このため今回のサミットでも、会場の周りではG8首脳たちの議論に影響を与えようとデモ行進をする人の後が絶えなかった。
世界のあらゆる国のすべての人の利益を満たすような政策を採択することは難しい。一度手にした権利を手放すのは抵抗があるだろうし、どの国もどこかの国に対して賛成と反対の意見を持っている。しかし人口の多いインドや中国、その他の国の意見を入れずして、世界が抱える問題を話し合うことに私は多くの意味を見出せない。
国家や社会の運営が上手くいっているかどうかを判断する一つに、米国の心理学者、アブラハム・マズローの『人間の欲求階層』理論をあてはめる考え方がある。マズローは、人間にはいろいろな欲求があるが、それを食欲のような生命を維持するために必要な生理的欲求から、安全や自己実現といったより高次のものへと5段階のピラミッド型の階層で示した。そして低次の欲求がある程度満たされて、初めて人間は次の段階の欲求が芽生えるという。もちろんこの欲求階層説だけで測ることはできないが、人間の生理的欲求や安全に安心して暮らしたいという思いを満たし、そして他者から認められ、自分の才能を発揮できる環境が、豊かな社会であるということは一理ある。このマズローの欲求階層を米国にあてはめると興味深いことがわかる。
米国が世界経済を支配した20世紀は「米国の世紀」とも呼ばれた。しかし国民の生活水準や貧困からみると、米国の世紀は基本的に1970年代に終わっている。実質平均賃金は1972年に最高を記録したが、社会保障税の増加を考慮すると大半の米国人労働者の実質賃金はそれ以前にすでに最高となった。生活水準を保つために米国人は働き手の数を増やしたため、実質家計所得は1990年頃まで増加したが、それ以降は再び減少している。この原因は、グローバル化によって米国企業が国内の製造基盤や賃金を抑制するために第三世界への資本や工場の移転を促進したためであり、これによって第三世界へは急激な工業化が押し付けられ、国内は空洞化して多国籍企業を所有する一部の富裕層だけがさらに富を蓄積していく構造が固定化された。
こうして米国のGDPは増加の一途をたどったが、大部分の米国人は、マズローのいう、安全や安定という、生命を維持するために必要な生理的欲求の次に満たされる欲求が再び脅かされる社会環境に放り込まれたのである。さらに米国では、人間の安全や安定の指標となる貯蓄も、2006年にはゼロを超えてマイナス1.6%であった。
世界から視点を移せば、日本でも、G8と同じように一部の政策立案者によって米国と同じように安全や安定が揺らぎ始めている。高齢化社会が進む中で年金が消えたり、一般国民には増税が、一方で大企業や富裕層には減税が行われ、国民の貧富の格差が広がり続ける。
G8では反対派がデモという行動にでたが、このような状況をもたらした与党政府に対して日本国民がとるべき手段は選挙である。参院選では私も日本人として改革のための一票を投じた。日本が米国から完全に独立するためにも、今回の自民党の敗北が55年体制の終わりの始まりとなるか、時がたてば明らかになっていくだろうが、改革はいつもこうしたことが契機となって起こることを忘れてはいけない。