No.820 慈善家などいらない共存共栄社会を

「フィランソロキャピタリズム」(philanthrocapitalism )なる言葉を知った。ヤング財団のマイケル・エドワードが著した『ジャスト・アナザー・エンペラー』という書籍からである。

慈善家などいらない共存共栄社会を

フィランソロピーやチャリティーは、人々が持てるお金や時間を慈善的な目的で他者に差し出すもので古くから行われてきた。20世紀における著名な慈善団体には、ロックフェラー、フォード、カーネギーなど多数あり、設立された財団は細かい規則を作り、それに基づいて多くのお金を運営している。

なかでも近年もっとも寛大な慈善家はビル・ゲイツ氏だ。ゲイツ財団は、発展途上国の子供たちにワクチン接種を支援するといった、健康支援団体に32億ドル以上、米国の低所得地域の公立図書館にコンピュータ、インターネットの接続、技術トレーニングを提供するといった教育や技術の事業に20億ドル以上を寄付している。ゲイツ財団によって救われた人がいることは事実だが、一人の人間にこれほどの富が集中する仕組みそのものがおかしいと私は思う。

米国では1917年以降、財団を設立して慈善事業を行うと税金が免除されるようになっている。巨額の富を持つ人の行う慈善の後ろには、「免税」という強力なインセンティブがあるわけで、米国を賛美し日本を貶める場合に、米国のでは金持ちが寛大な施しをしているとよく言われるが、それは決して正しい見方ではない。

前述したフィランソロキャピタリズムは、非営利団体が行う慈善事業をあたかもビジネスのように運営して社会を変えていこうという新しい動きである。つまり、アフリカの貧困や食料問題に、ビジネスの手法で取り組もうというものだ。たとえばゲイツ財団は投資家同様、見返りが大きいものを選んで支援している。ワクチン接種に投資したのは、マラリアがGDPに与える損失を計算し、その根絶に投資する価値があるかどうかという実践的アプローチから決定したという。施しも、投資と同じく社会的見返りが最大になるものをというのが、21世紀の賢い慈善事業家らしい。

しかしこれは大きな問題をはらむ。手を差し伸べられるべき人が、社会からの見返りが小さいゆえに見捨てられる可能性もあるし、慈善事業をする側に、市場における支配力をさらに強化するためのマーケティング的行為を行わせることにもなる。そして何より、一部の金持ちが社会の福祉を左右するということは、どう考えても不健全である。

あれほど慈善事業が盛んな米国自身、貧富の格差の大きい不安定な社会しかもたらされてはいない。それにもかかわらず米国を引き合いに出し、日本でも富裕層の相続税や所得税をなくせば「ノブレス・オブリージュ」で社会が良くなるなどという人がいるがとんでもないと私は思う。持てる者が持たざる者に恵むことを推奨することは、社会の不公平さを正当化することに他ならない。私は人間の持つ「慈悲の心」を信じている。しかしそれと「慈善事業」は別物であり、慈善事業を可能にする異常な富の累積を許すような仕組みこそ変えるべきであり、それが究極的には慈善事業を不要にする社会をもたらすものだと思っている。

資本主義によって弱肉強食の社会が作られた。そこでの勝者がその仕組みを維持したいのは当然であろう。しかし本来社会に必要なのは慈善家のお情けではなく、慈善家など要らない共存共栄の社会である。世界の問題解決を一握りの金持ちに委ねたら、彼らを金持ちにしたシステムだけはぜったい変わらないということを覚悟しなければいけない。