先月、日本より一足早くアメリカが地上波アナログ放送を打ち切り、デジタル放送へ完全移行した。当初2月の移行予定を、アメリカ政府は4ヶ月延期し、デジタル放送を見るための変換装置などの購入を促したという。
デジタル放送への移行
日本でも2011年に予定されている地デジ移行で、巨額の国家予算が使われている。アメリカでも消費者に対して変換装置やアンテナ、デジタルケーブルや衛星有料テレビを勧める移行キャンペーンだけで1,000億円以上使ったという。大きな混乱はないとしながらも、低所得者の多い州では準備ができなかった世帯も人口の数パーセントいるといい、アメリカの状況は日本も参考になるかもしれない。
デジタルに変えるのは、それによっていっぱいになった放送波の空いた周波数を、他の用途に有効利用できるからだという。しかしそれ以前に、私は今のテレビ放送がそのままデジタルになり、画像がきれいになったり、双方向のコミュニケーションがとれたり、テレビを見ながら通販番組で買い物ができるようになって、それが国民の健康や幸福にどう貢献するのかと思う。
今から半世紀前、テレビを低俗なものだと批判した識者が日本にもいたが、アメリカでも、ケネディ政権時代に連邦通信委員会の委員長に任命されたニュートン・ミノウは、テレビを「不毛な荒地」と評した。読書や自分の頭でものを考える教養主義的な世界観を持つ人々はもういないのだろうか。
テレビが提供するのはお笑いやスポーツ番組、ドラマ、サスペンス、そして合間に膨大なコマーシャルが流される。ニュース番組であっても、民間放送ならコマーシャルの合間に細切れに、殺人事件、スポーツ、天気予報といった具合だ。国民が本当に知るべき国家や地元のニュース、環境破壊や自然に関すること、市民の活動、何が達成されたのか等は、もはや国民生活とは関係ないらしい。テレビ局が守るべき放送法には、「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」とか、「公安及び善良な風俗を害しないこと」、「政治的に公平であること」といったことがあげられている。この法律は、日々放映されているテレビ番組に、どのような意味があるのだろうかと思う。
公共電波は国民のものであり、国民がオーナーでテレビ局はテナントのはずである。しかし利益を上げているそのテレビ局が支払うテナント料はごくわずかだ。河野太郎衆議院議員によれば、平成18年の電波利用料はNHKを含む営業収益100億円以上のテレビ局で総計34億4,700万円、一方でその営業収益は3兆1,150億8,200万円だという。電波を独占して得る収益に対して、わずか1千分の一の利用料しか負担していないのだ。
宣伝広告にあふれ、人々を思索や読書から遠ざけ、くだらない笑いや、意図的に国民すべてを同じ方向へ導こうとしているかのような番組を放映するテレビをみるよりも、することはたくさんある。2011年7月に我が家のテレビが映らなくなっても、失うものは何もないと私は思っている。