今年6月、文部科学省は国立大学の再編を目的に、人文社会系学部の廃止を迫る通知を国立大学に行った。教育学部や文学部を廃止し、代わりに「社会的要請の高い分野」への転換を求めるという。唐突とも思える内容だが、自民党安倍政権の一連の政策と同じ流れがある。
財政削減の一環として国立大学は10年ほど前から「法人」となり、交付金の削減だけでなく、再編統合により大学の数も減少した。企業などから研究資金援助を得られる理系の学部を増やし、一方で「社会的要請の低い」、つまり企業の役に立たない文学部などは廃止すればよいというのが安倍政権の方針のようだ。さらに決まり文句のように「グローバル化」として、国際競争力を上げるためにも理系分野を強化することが財界から求められている。
たとえ国民が反対しても、日本の自衛隊が米国の雇い兵として米国の戦争に参加できるようにする安保法案を通して軍需産業を支援し、多国籍企業に政府と同じ権利を持たせるTPPのような政策を推進する日本政府の目的が、企業の利益を最大限にすることなのはもはやいうまでもない。政治家や、政治家へ政治献金を提供する財界が求めるのは、哲学や文学を教える大学ではなく、技術革新をもたらす理系の学問や、企業の即戦力となるコンピューターや会計といった専門学校が教える実務なのである。
先の太平洋戦争では、戦局が悪化し兵士が不足すると、政府はそれまで徴兵を猶予していた大学生のうち、理工科系と教員養成系を除く学生から、つまり文系の学生から戦場へ送った。安倍総理が目指しているのは岸信介や東條英機の輝かしい軍国主義の時代に日本を戻すことで、そのためにも社会や哲学について考え、広い見聞を持ちさまざまな情報に通じた人間が少ないほうがよいのだろう。無知で従順な国民のほうが支配者は容易に統治できるからだ。
日本の教育は既に何十年もかけて改悪されてきた。平安時代から昭和の敗戦まで教育の基本にあった善悪の区別を教える倫理や道徳がなくなり、代わって権力者に従い命令を忠実に行う奴隷を育てることが目的となった。権力者とは先生や教育ママであり、奴隷とは会社に入れば権力連合の支配や搾取をおとなしく聞き入れ、疑問を持たずに働く従順な労働者、さらには大量流通のための従順な消費者だ。戦後は国家復興のために従順で規律ある労働者が必要だったが、25年以上停滞を続ける日本経済を復活させるために、今再び企業が教育に投資をする必要のない「人材」を求めて、教育改革が求められている。
大学における文系の学問は、企業が求める技術や新産業を生み出すことはないかもしれないが、経済力だけが国の力を測る指標ではないし、ましてや四半期ごとの業績と違い、人や社会は長い時間をかけて育むべきものだ。人間のあり方、多様性や柔軟性のある思想など、社会を支える人間を育てる教育をないがしろにすることは、長期的には国の力を弱めることになるだろう。