世界農業遺産は、国連食糧農業機関(FAO)によって2002年に始まったプロジェクトである。近代農業が生産性を偏重するあまりに環境を破壊したり、地域の文化や景観、生物多様性などの消失を招いているとして、伝統的な農業や生物多様性が守られた土地利用を維持保全し、次世代へ継承していくことを目的としている。
農業遺産登録地としては、ペルーのアンデスが海抜4千メートルという環境でジャガイモ畑の周りに溝を掘り水をため、昼間の日射で温められた水を気温の下がる夜間に畑に流して霜よけにしているとか、中国では漢王朝時代から水田養魚を行い、田魚が害虫や雑草を防いだり代替肥料となっている福建省青田県など、その土地の環境を生かした土地利用を行う地域が認定を受けている。
先日、日本で世界農業遺産認定を目指している徳島県剣山周辺地域を訪問する機会を得た。案内をしてくれた徳島県立鳴門渦潮高校の林博章先生は、世界農業遺産認定のための中心的な活動をされている。訪れた集落は伝統的な傾斜地農業を行っており、最大で斜度30度を超える急斜面に張り付くように農地が形成され、独特な石垣の上にある民家に住む人々は、先祖代々にわたって自家採取されてきた雑穀や伝統野菜の種で栽培を行っている。肥料として耕地に敷くカヤ(ススキ)は、土壌の流出防止や保水、保温にも効果があるということだった。山の急斜面に集落が点在し、向かいの山にも同じような山上集落が見え、雲がその下にかかっている様子はまるで空の上で生活しているかのようで、そのため古くからこの地域は「ソラ」と呼ばれているという。
このソラ集落では、伝統的に畑地には複数種類の農作物を混植で栽培するとともに、多種多様な干物・保存食を作る文化が残存し、天候異変等が起きても農作物が全滅して食糧不足にならないような危機管理システムになっている。気候変動や天変地異に対処できる自給自足が可能なシステムが機能していれば耐えしのぐことはできるだろうし、こうした知恵を千年以上にわたり実践してきたソラ集落を農業遺産として維持し、後代につなげることは重要であろう。われわれが訪れた時はちょうど、集落の人々が集まって畑の作業を手伝い、「お堂」で休憩をしている最中だった。信じられないほどの急勾配の山里に住む人々は、こうして協力し合いながら持続可能な「傾斜地農業」を営んでいるのだ。
日本政府は環太平洋連携協定(TPP)によって農産物を含むあらゆる関税と非関税障壁の撤廃を目指しているが、農水省の試算では、関税撤廃なら日本の食料自給率は40%から14%に落ち込むとしている。国民が生きていくために必要な食糧の大半を、アメリカをはじめとする外国の手に委ねるということであり、食糧をコントロールされることは主権を握られるにも等しい。
食糧の確保は、国の独立と平和を守る問題でもある。四国の山間部で、自然とバランスをとりながら無制限な拡大を求めない持続可能な農業を行う集落システムに、日本という資源のない小さな国が目指すべき社会の姿を見た気がした。