嘘の上に築かれた国-米国はいかにして豊かになったか(パート5c)
by Larry Romanoff
大いなる金の強奪 パートII シティバンク
シティバンクは19世紀にロックフェラー家とそのスタンダード・オイル帝国との近親相姦的な関係で誕生したときから、その生涯を通じて犯罪組織だった。1900年代初頭、銀行名がナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークに変更された時には、すでに米国内で多くの犯罪計画に関与しており、その吸血鬼の触手を海外、特に中国に伸ばしていた。国内のほとんどの銀行規制を破り、試し、違反したが、銀行のオーナーがその強欲な夢以上に成功したのは中国においてだった。ここで注意しなければならないのは現存する数少ないシティバンクの「伝記」は、ほとんどが銀行自身によって書かれたもので、そのほとんどが成長と成功の自画自賛であるということだ。これに対抗するために、犯罪的な怪物をより正直に深く掘り下げた伝記を書こうとする懐疑的な著者の多くは、シティバンクのアーカイブ(保管された記録)を研究者が使用できないことを訴えている。それには正当な理由がある。
ピーター・ジェームズ・ハドソンは、調査ジャーナリストとしてシティバンクに関する執筆を行うにあたり、「資本主義のアーカイブなしに、資本主義の歴史をどうやって書くのだろう?シティグループ(のアーカイブ)は研究者に閉ざされている」と書いている。また、シティバンクについて出版された重要なテキストの1つ『Citibank, 1812-1970』はハーバード大学出版局から出版されているが、銀行の幹部が企業戦略の練習として書いたものだと指摘している。ハドソンは独立したアーカイブからシティバンクの歴史を再構築しようと試みたが、「分散し、収集されず、まとまっておらず、ほとんど知られておらず」、そのアーカイブを作ったのはシティグループではなくその活動に抗議したアーティストや活動家たちだった。彼は、この試みから企業によって書かれた企業史に対する“過激な、対抗する物語”が明らかになった と述べている。
中国での宣伝活動においてシティバンクは1902年に中国で初めて設立されたことを誇り、ニューヨークのナショナル・シティ・バンクが中国で発行した通貨の写真を掲載して、中国への貢献を証明している。しかし、1902年以降は、1980年代後半にシティが中国の深圳という僻地におそるおそる再進出するまで、何も起きていない。具体的には、この間のシティの活動については、支店のある十数都市の名前と、シティバンクが中国を去ったのは「戦争のせいだ」という一種の消極的な発言以外何の情報もない。この間にあるのは沈黙だけだ。沈黙だけでなく、奇妙にも書かれているものがない。実際、少なくともコントロールが可能なインターネットでは、完全に消されている。全世界のメディアと歴史的アーカイブによるとシティバンクは1902年から1949年まで、つまり中国に到着した日から出発する日まで、中国には存在していなかった。その理由はすぐにわかる。
1900年代初頭、ほとんどの国では政府の中央銀行は通貨を発行せず、各公認銀行に通貨発行を任せていた。各公認銀行は、紙幣の発行量に見合うだけの金や銀の裏付けがあれば、無制限に通貨を発行することができた。そして、多くの国では、多くの銀行の紙幣が同時に流通し、貴金属の裏付けがあることで現金として受け入れられ、自由に交換することができた。これは中国でも同じで、中国の銀行も外国の銀行もそれぞれに紙幣を発行していた。
シティバンク、正確にはニューヨーク・ナショナル・シティ・バンクの場合は上海に支店を開設し、貴金属の裏付けを条件に紙幣を発行することが許可され、シティはその条件を遵守していた。しかし、その後、欧米列強による中国への破壊的な干渉により、統制が取れなくなってくるとシティは野心的になり、支店網を許可なく12都市に拡大し、そのすべてで金銀の裏付けのない通貨を無制限に発行し始めた。シティは、中国に進出した時点でほぼ破綻しており、これ以上の資産を投入することはできなかった。そこでこの銀行は全く裏付けのない中国の通貨を印刷して発行し、それが国民に受け入れられて銀と交換されることを想定していた。これはまさに「スーツケース・バンキング」だった。なぜならこれらは資産も登録資本もない違法な“シェルバンク”だったからだ。シティが発行した偽札の総量を示す明確な記録は見当たらないが、数百億ドル規模であったことは間違いなく、それが中国のインフレに大きく貢献し、銀行にとっては巨額の犯罪収益をもたらした。
しかしそれだけではない。シティバンクのオーナーは、中国の歴史上、最大級の詐欺的な窃盗を企て、実行していた。シティバンクは、紙幣を売って得た利益に満足せず、中国の一般家庭で伝統的な貯蓄として保有されていた金をすべて強奪する計画を立てた。銀行は、すべての中国人に金塊をシティバンクに持ち込んでもらい、銀行の金庫に「安全に」保管するというキャンペーンを大々的に展開した。人々には預金の証拠として紙の金券が渡され、金券はいつでも実際の金と交換できるようになっていた。中国政府は、外国人が信用できないことが明らかになっていたので国民がこのプログラムに参加しないように懸命に努力した。
残念ながら、多くの中国人はこれらの警告を無視し、信頼してニューヨーク・ナショナル・シティバンクに金塊を預けることを選択した。しかし保管庫が満杯になると、心配になったユダヤ人銀行家は心変わりした。金塊を保管庫から米軍の艦船に移し、ニューヨークに送ったのだ。そして、シティバンクはドアを閉め、「中国よ、さようなら」と言って帰国したのである。私が見たレポートでは、その金塊は最終的に米国連邦準備制度(FED)に行き着いたようだ。以前の、FEDが保有するすべての金を突然、溶かし直して再鋳造したというコメントを思い出してほしい。その理由がわかっただろう。
興味深いことに、占領下の日本軍はこの一連の出来事を確認することができた。それはニューヨーク・タイムズ紙で報道されている。占領下の日本軍は、その過程を疑い、上海を出発する前にアメリカの軍艦を検査するという習慣を始めたのだ。その中には、モルガン銀行やチェース銀行が所有していたと思われる金塊も含まれていた。しかし、ほとんどの金塊は見逃され、その総額はまたしても数百億ドルに上ると思われた。それも1940年代の話である。証明された事例と残差の適度な推定値を考慮するとシティバンクは中国国民に対して、現在の銀行の資本金総額をはるかに超える債務を負っていることが明らかである。
当時の報道によると、シティの退去時には多くの人が金券を上海支店に持ってきて換金しようとしたが、スタッフに引き止められ、その際「シティバンクの業務はすべて終了したので、中国銀行に依頼するように」との張り紙があったという。後になって明らかになったことだが、シティは長い間中国からの撤退を準備しており、オフィスにはほとんど何の証拠も残さず、中国での40年以上の犯罪歴のすべての出来事の証拠を削除または破壊していた。またこの時期のシティバンクは、キューバや南米、革命後のロシア、大恐慌時の米国などで資産を失い、債務超過の危機に瀕していたことが史料からうかがえる。この時期については、さまざまな書籍が言及している。
ハーバード大学が出版した本には、シティバンクが奇跡的な発展を遂げたのはすべて中国での「資産の急速な獲得」によるものであり、ある著者はシティの中国資産は華北で約300億元、また別の著者は華南で100億元以上と記録している。そしてこれらの「獲得資産」は米国に移転された。
当然のことながら、現在でも、歴史的な書類を持ってシティバンクから金塊を取り戻したいと考えている多くの中国人がいる。多くの中国人グループは、中国と米国の両方で弁護士を雇い、文書化された主張を様々な裁判所に提出しようとしているが、当然のことながらシティバンクはそのような主張がどこかの裁判所で審理されるのを全力で阻止している。中国では、シティはナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークという別の法人として運営され、その法人はもはや存在しないため中国では訴えられないというのがシティの言い分ある。しかし、米国では、シティはその前の銀行の法的な子孫とみなされているので、起訴は認められるだろう。あるグループは、シティバンクに対して2億5,000万ドルの請求をするためにすべての証拠を提出した。最終的にニューヨークの裁判所はこれらの中国人原告の訴えを認め、審理することに同意した。ただし各原告は米国の裁判所に直接出頭して証言しなければならず、さらにすべての書類の原本を直接提示しなければならないという奇妙な条件がついていた。コピーは認められないというのである。
ここまではなんの問題もなかった。しかし、これらの中国人原告が旅行ビザを取得するために中国の米国領事館に出向いたところ、米国国務省はその申請を一切受け付けず、米国への旅行ビザをすべて拒否したのである。米国側は何の説明もしなかったが、説明の必要もないだろう。渡航ビザがなければ米国の法廷への出廷もなく、裁判もなく、シティバンクによる数十億ドルの金の払い戻しもないのだ。中国の原告をばかにするかのように米国務省の役人が「中国で訴訟を起こせ」と言ったが、それができないことは十分わかった上での発言で、役に立たず、感謝もされなかった。これを簡単に考えると、私、ジョン・ジョーンズがビジネス上の取引であなたを騙し、その後、私の名前をハリー・スミスに変えたとする。あなたはジョン・ジョーンズを裁判で訴えることができるがその人はもう存在しないし、あなたはハリー・ジョーンズという「法人」と何の取引もしていない。これが米国人が誇る米国という「法治国家」であり、中国のシティバンクを訴える上での問題点なのだ。もちろん米国の弁護士でさえ(ビザを拒否した)在瀋陽米国領事館の行為は違法だと言っているが、中国では外交特権があるので、起訴されたり、裁判所に出頭させられたりすることはない。もちろん、罰として国外追放にすることもできるが、同じ台本を読む人が入れ替わるだけである。
実際には、裁判を起こすために米国への短期旅行ビザを取得した原告が一人いた{18}。この男性、Shao Lianhuaによると、まず、自分の案件を引き受けてくれる米国人弁護士を見つけるのに非常に苦労したという。米国の弁護士は、中国人が米国から金を引き出すことには協力しないと公言するなど、彼を軽蔑したという。しかし米国に到着し、弁護士を雇った後、出廷の前夜ホテルの部屋に訪問者があった。重装備の警察官2人が彼の部屋に押し入り、金の証書に関する書類を指定して所持品の捜索を要求した。これは、捜索令状も正当な理由もない、明らかに違法な行為だった。Shaoは自分の書類を見つからないように隠していたが、捜索を防ぐことはできなかった。彼はついに弁護士を呼び、長い話し合いの末、警察は手ぶらで帰っていった。しかし彼らは警察ではなかった。弁護士は、彼らの名刺と写真から彼らが米国財務省のシークレットエージェントであることを突き止めた。ホワイトハウスの命令を受けた米国財務省が、なぜ武装した捜査官を派遣してシティバンクの不正行為の決定的な証拠の原本を没収することだけを目的とした違法な捜査を行うのかという合法的な問いかけができるはずだ。
いずれにしても、Shaoは手ぶらで中国に戻り、それが中国人原告に与えられた最後の旅行ビザとなった。米国の司法の「独立性」や、「法の支配」や「米国人はルールを守る」といった愚かなイデオロギーの話はもう聞く必要はないだろう。さらに言えば、ニューヨーク・タイムズ紙は、よりイデオロギー的に破綻した記事のひとつとして、次のように書いている。「民主的な政治システム なくして、中国がルールを守ることを信頼できるだろうか?」。ルールに従って行動することで信頼できないのは、民主的な政治システムを持つ国であるようだ。
上記の2億5000万ドル以外にも有効な請求が数多くある。シティバンクによって盗まれた中国民衆の金塊をリストアップすると合計で 1億ドルが、1家族または家族のグループから1912年から1933年の間に9回に分けて盗まれている。別のリストでは1934年から1941年までの間に19回に分けて何百万ドルも盗まれている。また1907年から1913年までに17回に分けて総額2,500万ドルという金額が記載されていた。米国財務省、FED、CIAが世界の中央銀行や大規模商業銀行から各国の金を引き出すのに忙しかった一方で、シティバンク、モルガン、チェースは、人々の個人的な金の保有量を吸い上げるのに忙しかったことを示す議論の余地のない証拠がある。全世界の金の供給をFEDと米国の銀行のために蓄積するために協調して働いていたのである。
しかしシティバンクは図々しさに欠けていなかった。2002年、シティは「アジアにおける100年」を盛大に祝い、「アジアの金融情勢の形成に貢献し、何百万人もの顧客に革新的な消費者金融を提供してきた」と大々的に宣伝した。それだけではなく、アジアでの存在感が再び高まっている中で、「シティバンクは次の100年に向けて、アジアの多様な金融ニーズに応えるための理想的な立場にある」と述べた。我々は、「いいえ、結構です。私たちは、前世紀にあなた方が私たちの経済を『形成』した方法からまだ回復していません」と言われても仕方がない立場にある。
同僚の一人が、これはいけると思った提案をしてくれた。それは、すべての証拠を集めた中国の「金博物館」を設立し、中国のシティの支店やシティバンクの本社の近くに設置し、すべてのメディアに告知するというものだ。
その博物館には、大規模な窃盗事件の元本と発生する利息を表示する「経済ホロコースト時計」も設置できるかもしれない。別の同僚は、訴訟を専門とするベンチャーキャピタル会社が全国規模の集団訴訟を起こすことを視野に入れて、これらの証書を収集し、認証し、処理することに興味を持つかもしれないと提案した。そうすれば、シティバンクに対して、その罪を認めて償うか、あるいは荷物をまとめて中国から永遠に出て行くかのどちらかを迫ることができるかもしれない。
この話にはまだ続きがあり、おそらくシティバンクは十数カ国で同じようなことをしたのではないかと推測される。ある場所で成功したことは、どこでも成功するはずだ。シティ(インターナショナル・バンキング・コーポレーション)は、1902年に中国で登記すると同時にフィリピンのマニラ、インドのカルカッタ、シンガポール、日本の横浜、1915年のブラジル、アルゼンチンなどでも銀行業務を開始している。シティバンク(および米国)はアルゼンチンでは非常に嫌われており、1927年に愛国者(または無政府主義者)のグループがシティバンクの本社とボストン銀行の本社を爆破したが、おそらく同じ犯罪に対する報復だったと思われる。おまけに同じ人たち(あるいは他の人たち)が米国大使館とフォード・モーター社も爆破した。シティバンクは様々な場所で嫌われているがそれには理由があるといえる。第二次世界大戦以前のシティバンクの活動を示す証拠は、世界のどこを探してもなかなか見つからない。グーグル、マスメディア、アメリカ政府、そしてシティバンク自身のおかげで、公の記録は驚くほどきれいに削除されているのだ。このような情報が公になることを望んでいない上層部の人々がたくさんいるのである。
シティバンクのウェブサイトにはこのような記述がある。「シティバンクが中国に進出したのは1902年のことで、当時の中国の商業・金融の中心地であった上海に最初の支店を開設した。その後30年間で、シティバンクは中国に14の支店を開設した。支店の多くは主要な港湾都市にあり、中国に駐在する外国人や貿易業者のニーズに合わせて作られていた」。最後の文にある、中国の「外国人駐在員や貿易商」のニーズに合わせた活動に注目してほしい。それは当時中国でアヘン取引に関わっていたサスーン、カドリー、ハートゥンなどの人々である可能性が高い。私の疑念が正しければシティバンクが中国に設立されたのは、HSBCが設立されたのと同じように、当初は麻薬資金の取引と洗浄を目的としていたことになる。もちろん、シティはこの点については沈黙しており、1980年代半ばにひっそりと中国に戻ってきたとしか記していない。
インターネット上で、中国のシティバンクについて書かれた数少ない文献のひとつに、米国の大学からの短い論文がある。「 …中国の支店は、1930年代に米国を襲った大恐慌の中でも営業を続け、利益を上げていた。しかし、1940年、第二次世界大戦の勃発により日本軍の中国本土への侵攻を考慮して14の支店すべてが閉鎖され、シティバンクの駐在員は全員、安全のために米国への帰国を命じられた。戦後、共産革命のため中国には戻れなかったが、支店を開設するために香港に戻ることができた」。つまり、シティバンクは、犯罪から逃れるためではなく、戦争のために中国を離れ、大規模な窃盗のためではなく、非協力的な共産主義者のために戻ることができなかった、悪いのは被害者だ、と言っている。
結びとして、シティバンクは1812年に犯罪組織として誕生し、モーゼ・テイラーがニューヨーク州議会に多額の賄賂を贈り、銀行業の認可を得たことを書き留めておこう。ある著者はモーゼ・テイラーとジェームズ・スティルマンというユダヤ人のダイナミックなコンビが仕切っていたことで、「シティバンクは巨大な歴史的犯罪を犯した」と指摘している。投資家を騙したり、政府高官との不正な取引で巨額の利益を得ていたのである。米国上院銀行委員会は、シティバンクが不正に高額な株の販売を促進し、1929年の株式市場の大暴落の原因の50%を作ったと非難した。当時、米国最大級の銀行であったシティバンクから国民を守るために、政府は初めて証券取引法を制定したのだった。しかしシティバンクはウェブサイトの経歴の中でこのことを認めていない。
シティバンクの中国での犯罪は、何十億もの不正な通貨の発行や大量の金の窃盗だけではない。シティバンクは、漢口銀行をはじめとする中国のいくつかの銀行の略奪に参加し、中国からの貴重な美術品の密輸、中国の内戦を促進するための武器の密輸と販売にも明らかに大規模に関与し、米国政府のスパイ活動にも深く関わっていた。私は、航空機や軍隊の位置や動きを記載したシティバンクの書類を見たことがあるが、それらは定期的に米国大使館などに転送されていた。記録によれば、米国政府はシティバンクの犯罪行為を知っていただけでなく、反中政策の多くを実施するための直接的な道具としてシティを利用していた。実際、米国政府と軍の積極的な支援がなければ、シティが犯罪を成功させることはできなかっただろう。その一つとしてシティバンクの略奪品は米国の軍艦で国外に輸送されたのである。
Note:
{18} http://news.cri.cn/gb/41/2004/03/31/107@114806.htm
Copyright (c) Larry Romanoff, Moon of Shanghai, Blue Moon of Shanghai, 2021
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