No. 1452 米国政府と中国政府の 資本主義を規制するための異なる権力の使い方

米国政府と中国政府の

資本主義を規制するための異なる権力の使い方

by Richard D Wolff

ロシアのウクライナに対する戦争は、世界的な分裂を反映かつ深めるものであり、カール・マルクスの有名な言葉を思い起こさせる。

 社会秩序は、その中に存在するすべての生産力が開発される前に消滅することはなく、新しい上位生産関係は、その存在のための物質的条件が旧社会の胎内で成熟する前に出現することはない。

イギリスはすでに帝国という特殊な社会秩序を失っており、米国は今それを失いつつある。違いはあっても、この2つの社会秩序は、生産の資本主義的な関係のほとんどを私的な形態で共有していた(私的な雇用者と被雇用者を中心とした企業組織)。その社会秩序は、それと異なる、国家公務員が主な雇用主となる生産の資本主義的な関係に負けた。この形態の資本主義は中国において最も劇的に発展している。

その核心的な生産関係である雇用者と被雇用者の関係によって定義されるように、資本主義は現在その生産力を伸ばしており、国内総生産(GDP)は中国の公的資本主義の形態の方が、米国の私的資本主義の形態よりも速く成長している。

国家の役割は、この資本主義のある領域と形において衰退し、別の領域と形において上昇の中心となっている。西洋では、資本主義の、特にその擁護者と観念学派と、国家機構の現実との関係は偽善的である。国家に対する果てしない敵意と非難の声は、強力な国家機構と、それによって課される経済的介入への組織的な依存と支援に等しい。(特に資本主義の果てしなく繰り返される危機を管理するために)。制度的に人種差別が起きている社会で人種差別が常に拒絶されること、あるいは制度的に家族をひそかに傷つける社会で家族を祝福することに等しいことを考えてみてほしい。

システムが依存しているものを公然と非難することは具体的な効果をもたらす。欧米の資本主義経済が衰退しているのは、国家が経済運営に参加することに障害があることが大きな原因である。中国のような発展途上国の経済はそうなることを著しく避けている。中国の擁護者や観念学派は、特定の政策や役人を批判するときでさえ、国家の強力な経済管理の立場を称賛する。これは中国が過去一世代にわたり、一貫して米国の3倍の速さでGDPを成長させることができたことの説明となる。

中国が強い国家を受け入れた背景には、ソ連との関係や19世紀から20世紀にかけての社会主義の歴史がある。当時、ほとんどの社会主義者は、資本主義から社会主義への移行には、労働者が投票や銃弾によって国家を掌握する必要があるというような考えを信奉していた。国家が社会主義体制への移行の鍵を握る存在となった。多くの社会主義者は、そのような国家に期待されること、すなわち、資本主義を超えた社会主義への社会的移行、すなわち、雇用者と被雇用者の生産関係を超えた社会主義への移行を実現するために、強力な国家機構を提唱していた。しかし社会主義者が権力を獲得したとき、それらの国家は限界があることが証明された。短い実験期間以上にその移行が達成されることはなかった。以来社会主義者たちは、これらの実験の教訓を分析し、議論してきたのである。

今日の国家資本主義の発展のより基本的で重要な原因は、資本主義そのものの歴史にある。西欧におけるその初期の姿は、(ヨーロッパの「絶対君主制」に見られるように)滅びゆく封建制の強力な国家から生まれ、それに対抗するものであった。初期の資本主義は、「自由放任」、「自由企業」、「自由市場」といった概念で、強い国家的コミットメントに反対することを強く主張していた。イギリス、そしてアメリカの資本主義が、儲かる世界帝国を築いたとき、彼らはその成功が反国家主義にあったとした。この主張の偽善的な傾向は、国家機関である軍事部門が植民地を獲得し確保し、行政部門が植民地を統治したという事実の中に浮かんでくる。

資本主義帝国の競争は、破滅的な世界大戦と世界経済の崩壊を引き起こした。彼らは、強い国家にますます依存し、資金を提供し、正当化する必要があることを学んだ。このような学習はさまざまなファシズム的衝動や運動、ケインズ経済学、そして強い国家に何ができるか、何をすべきかという社会主義的解釈の人気が高まってきたことに表れている。初期の西欧資本主義がより強い国家を受け入れるようになると、その観念学派たちの不安と両義性が、起きていることを拒否するための想像上の理由を生み出した。アイン・ランドの影響、リバタリアニズム、自由市場の支持は、システムが反対方向に動くのに比例して広がり、大きくなった。今日、社会主義者がグローバル経済を「資本主義的」だと非難するのに対し、これらのリバタリアンは、国家が経済に対して大きな力を持っているために、純粋に十分な資本主義ではない(あるいはまったく資本主義ではない)と主張している。

第二次世界大戦後、植民地支配から脱した世界の大部分は、直ちにケインズ主義や社会主義的な形態の強国を受け入れ、彼らが優先した「経済発展」を達成した。西洋資本主義はその両義性の中で再び引き裂かれた。資本家たちは急成長による利益をつかもうとした。観念学派はその成長の担い手である「新興国」の中の強国を警戒した。その結果、現場では強国主導の経済成長と反国家主義への激しいイデオロギー回帰の両方が世界的に復活したのである。「新自由主義」という名称がその時代に定着したのも当然である。

西洋の古い資本主義も、東洋の新しい資本主義も、この一世代でかなり進化した。それらの進化は現在、実際に強化された強力な国家資本主義への社会的傾向と、それに対する残存するイデオロギー的異議との間の継承された緊張に限定的な解決を与えている。イギリスやアメリカでさえも、こうしたイデオロギー的な表現が弱まりつつある。強国主義を唱えるのは、ドナルド・トランプ元米大統領やボリス・ジョンソン現英国首相などの「保守派」に加え、社会民主主義者やリベラル派も増えてきた。欧米の資本家がそれを公に認めないようにしていても、中国の経済的パフォーマンスは圧勝している。

ロシア出身の経済史家アレクサンドル・ゲルシェンクロンは、『歴史的観点から見た経済の後進性』(1962年)の中で、資本主義が地域の経済支配システムとして定着するのが遅くなるほど、国家は資本主義の発展にとってより重要になる、と指摘した。彼の考えは、この60年の歴史に照らして修正し、グローバルに拡張する必要がある。中国では強力な国家機構が強力な政党機構と結合し、私的資本主義企業(私人が使用者と従業者)と公的資本主義企業(国家公務員が使用者と私人が従業者)に分けて経済を監督・統制している。中国は経済成長だけでなく、新型コロナの蔓延を食い止めるために目覚しい初期統制を行ったことから、資本主義の最終段階は、中国が開発した形態のような国家資本主義にある可能性を示唆している。国家は資本主義の「後進的」形態を、より「先進的」な形態に変えることができるのである。

ポスト資本主義システム(雇用者と被雇用者の関係が、雇用者と被雇用者の区分のない民主化された職場組織にとって代わる)が定着する前に、国家資本主義の形態はシステムの生産力を最も完全に発展させることを可能にする。私たちは今その時期を生きている。さらに付け加えると、社会的左派は19世紀末から20世紀初頭にかけて直面したのと同じような状況に置かれているが、重要な違いがある。社会主義左派は、以前の世紀と同様に、どの国にもまだ存在しない経済システムを提唱しているのである。

しかし社会主義左派は、社会主義の実験が国家資本主義の形態であることが判明し、現在もそうなっていることを知った上でそうしている。願わくば、21世紀の社会主義はこれらの実験を繰り返す必要はないだろう。それは、その実験に欠けていたもの、すなわち、職場組織のミクロ・レベルでの移行に注意を払うことである。つまり、企業(工場、オフィス、店舗)を、雇用主対非雇用者の組織から、民主的な共同体(あるいは労働者協同組合)組織へと移行させることである。その移行ができる国家は、それによって資本主義社会秩序の終焉を達成することになる。そしてそれは、ウラジーミル・レーニンが「枯れる」と説いた、国家の社会的必要性の衰退をもたらすかもしれない。

https://www.counterpunch.org/2022/04/29/the-different-ways-that-the-u-s-and-chinese-governments-use-their-power-to-regulate-capitalism/